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品質基準は自らの内に置く

中年起業の零細企業は、発注側にはできない「自らに品質基準を持てる得意なこと」をやる以外にないのである。ところがここに一つ、決定的に大きな問題がある。実は世の中は、品質というものについての尺度がない、品質を判断できない、という人がほとんどなのだ。

例えば自分がやっている富士山麓の店では、少なくとも自分が美味いと思うモノしか出していない(お口に合わない、ってことはありましょうが)。世の中のレシピなどは参考にはするけれど、方便的なことと本来あるべき工夫がごっちゃになっていたりするので、やはり自分なりにアレンジする。

カレーなら、市販のルーやコンソメなどは一切使わずにインドスパイスだけで作っている。お手本はあるが、完全に真似ができる訳でなし、自分の味覚とそれを信じての試行錯誤が頼りだ(現在、オリジナルのガラムマサラを試行錯誤中)。業務用レトルトのほうが「馴染みのある味」で安心感もあるのかもしれないが、それを出す気にはなれない。

ソフトウエアなんかも同様であろう。通常、発注者は様々な事情で自分では作れないから外部に発注するのであって、本当は自分が作った方が早くて安くて高品質なら、わざわざ外注しないだろう(ビジネスの規模を追求する話はまた別)。仮に、発注者側にもプログラミングのスキルがあったとしても、当然、その想定を上回る品質で納品するのが請ける側としては普通のことだろう。

原稿なんてものにも同じことが言える。なんらかの請負仕事で原稿を書くということが継続しているならば、書き手の側は発注側の想定を上回るモノを書いているはずだ。

コミュニケーションを例にとろう。「良いコミュニケーション」は気になるところがないので円滑だ。逆に「ダメなコミュニケーション」は、気になるところが目立つものだ。「なんで、こう返すかなぁ」「もっとこうすれば良いのに」と言いたくなる点がたくさんある(ダメなコミュニケーションについては「No.91 ダメなコミュニケーションとは?」で言及した)。

この良いコミュニケーションの状態が、自らの品質基準が相手の期待を上回っている、という状態に近い。発注側の要求水準を超えるモノだからこそ、気になることが生じないのである。これがごく自然にできていることが望ましい状態だ。

逆に言うと、発注側の品質基準がはっきりしない、ころころ変わる、出てきたものには不満だが何がどう不満でどうしてほしいのかがはっきりしないなど、自らの品質基準をよく分からないモノ(気まぐれだったり、担当者が会社内での自分の評価を気にした結果だったりする)にアジャストしなければならないような仕事は請けるべきではない。もっとも世の中には、そういうところに活路を見出して上手くやっている人が一定数存在し、発注側も請ける側もお互いにそれがやりやすいと感じているのも事実である(あそこは無理を聞いてくれる、などと表現される)。

つまり、中年起業の零細企業は、発注側にはできない「自らに品質基準を持てる得意なこと」をやる以外にないのである(もちろん、チームを編成することによって品質を実現することもある)。ところがここに一つ、決定的に大きな問題がある。実は世の中は、品質というものについての尺度がない、品質を判断できない、という人がほとんどなのだ。

少し前に記事の信頼性やパクリ原稿で話題になった「キュレーション・メディア」を例にもう少し話を進めたい。IT、特にインターネットには「手段の目的化」という性格がある。もちろん、手段を極めることによって目的に近づく、という側面はある。しかし、自らの品質基準を持っていない人が何かを作ろうとしたときに、往々にして目的は忘れられ、手段を追求することになる。中途半端にアタマが良い人だと尚更だ。

自らの品質基準を持っていない人にとって、何がベンチマークになるか? それは他人からの評価(その評価をする人にも品質基準はまずない)であり、高い評価であるべきと証明したいがために「外部の権威がありそうな定量評価」に頼ることになる。そして、その外部のベンチマークによる目標をキャッチアップしたことを以て自分が評価されたいと考える。

さらに、(これも多くの場合は品質基準がない)上司や会社、あるいは世間に評価してもらうには、この手の「分かりやすいが実際のところはブラックボックスに近い」という指標はとても都合が良いものでもある。茂木健一郎氏がご指摘の英語の検定試験しかり(茂木健一郎 公式ブログ – TOEIC批判)、受験なんかもまさにそれ。飲食店にとってのグルメ系口コミサイトなども同様。一般のWebにおいては、Googleの指標以外にサイトのベンチマークを設定できない状況にある、というのが典型だ。

メディア、あるいはメディア的なWebサイトであれば、内容がちゃんとしていて、また読みたくなるようなものである、思わぬ視点を提示してくれる(そういうものは検索ワードの上位には来ない)ということが最初にあるべきで、Googleの評価はその結果として付いてくるものであるはずだ(もちろん、基本的な作法はインプリしたうえでの話ではあるが)。それが、Googleベンチマークを出発点にサイトやその内容を考えるようになるのだから、まさに本末転倒も甚だしい。

これらはすべて、自分では品質を評価できないことに自覚的(あるいは無自覚かもしれないが)な人たちに「Googleを知っている(本当のところは知らないのに)ことこそが大事」と勘違いさせ、そこにおいて巧妙に心理操作することを可能としてしまった結果、とも言える。

コピペなどで作った劣悪なコンテンツのオーディエンスは被害者である、という側面もある。しかし、それを信じてもて囃している(閲覧数が多かったり、拡散されたり)という点では共犯関係でもある。そして、その情報の作り手までもがそうなってしまったのが現状なのだ。

メディア(特に雑誌やテーマサイトなど)は、そもそも「curate」が主たる機能である。わざわざキュレーション・メディアなどと何でいまさらそんなに特別なもののようにカテゴライズしているのか。「ネット的手段の目的化型メディア作成方法」くらいの話であろう。既存メディアがネット的ベンチマークに疎かった、ネットの人はメディアの基本を知らなかった、ということでもあるだろう。

キュレーション・メディアの件については、プラットフォーム(というらしい)企業にも、サイト運営にかかわったスタッフにも、原稿を請けたクラウドのライターにも、自らの品質基準がなかったということが最大のポイントだろう。その結果、Google最適化という本来は手段であるはずのことが目的化してしまい、そのためにどうやれば(倫理的なことは別として)最も効率が良く見かけ上たくさんのコンテンツを作り出せるかを追求することになってしまった(たくさん作ることは大事ではあるが)。

この結果、表面的な「あるある」とか「ウケるー」くらいの話を「企画」としてしまい、そこに裏付けのなさや明らかに差別や問題ある表現を含んでいても、すべてのチェックを素通りしてしまい、するっと世の中に出てしまうということが起こりうる。人の進路を家畜に準えたり、消臭の対象に「くさや」を持ってきたりなども同様だろう。

表面的、日常的なギャグ、ユーモアともいえないおふざけの範囲にとどまる品質基準のない「あるある」的な企画やコンテンツは、日常の何気ない会話ならまだしも、そこにいま一歩の踏み込みはない。「自らに品質基準のない人同士が分かる範囲でウケているだけ」なのだ。

例えば、ピーター・バラカン氏のラジオ番組を聴いていると、オーディエンスからの投稿やリクエストの品質の高さに驚かされる。特定のミュージシャンについてであれば、バラカン氏を超える知識と思い入れが感じられる投稿も少なくない。バラカン氏もこういったオーディエンスを裏切らないために高い品質で応じている。バラカン氏あっての番組とオーディエンスであり、オーディエンスあっての番組とバラカン氏なのである。メディアとオーディエンスのとても良い関係である。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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