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「コンコルドの悲劇」に何を学ぶか?

埋没費用と事業成功の可能性には何の因果関係もないこと、自分は自分自身が持つ専門性との戦いを控えていること、そして自分自身の専門性は必ず歪(ゆが)んでいること、私たちはこの3つについて「コンコルドの悲劇」から学ぶことができる。

コンコルド」は英仏のエアラインが共同で開発した音速の2倍近い最高速を誇る旅客機だ。1969年に初飛行し1976年から2003年まで定期運行されていた。離着陸時のパイロットの視界確保と最高の空力特性を両立させるため、機首が可動式のドループノーズ(Droop Nose)になっていることも含め、多くのデザイン上の特徴も併せもつ、感嘆に価する美しい機体だ。

ただ、開発途中から様々な問題が発見され、順調に運行が開始されたとしても開発コストを回収できないことが判明したが、あまりにも巨額の開発費をすでに投じていたため“引くに引けない”状態となり、致し方なく初飛行に辿り着いたのは有名な話である。

2000年に起きた悲惨な墜落事故(5分前に先に飛び立った航空機が落とした金属破片を踏みつけタイヤがバースト、離散したゴム破片がタイヤを制御するワイヤー等を直撃・切断、そこから発生した火花が主翼に格納されている燃料タンクに引火し爆発。機体は操縦不能に陥り、離陸からわずか2分後に近くのホテルに激突し大破・炎上、乗客乗務員全員が死亡した)が契機となり、未来永劫にわたって採算が合わないことがわかっていたコンコルドに引導を渡した形になった。

回収できるか否かとは無関係に、すでに投下した資金や労力などを「埋没費用(sunk cost)」という。このコストは、途中で当該事業を中止したり撤退したりしても戻ってくる見込みはない。しかし、その費用があまりに巨額である場合は、回収できる見込みがなくても“もはや後戻りできないという恐怖感と楽観的で根拠のない未来予測”を拠り所に、中止・撤退を考えずに計画を推進してしまい、結果として巨額の負債だけが残ることがある。

これが「コンコルドの悲劇」であり、公共事業などはこれに該当するケースが非常に多いと思われる。本州四国連絡橋(瀬戸大橋を含む10の橋の総称)など、誰がどう考えても回収できるわけがない巨額の税金がそこに注入されているが、得体の知れない公益性という大義名分がこの悲劇を隠蔽しているに過ぎない。

さらに深刻なのは、これが戦争の場合だ。本来、敗退した場合はそのまま撤退・終結させてしまうことが最も合理的な判断になるはずだが、そこに投じた命(埋没費用とみなせる)を取り返そうとする行為は、さらなる悲劇の拡大につながる。特に第二次世界大戦におけるドイツや日本の緒戦での勝利(?)は、未来の楽観論に論拠(根拠)を与えてしまったため、通常のコンコルドの悲劇以上の勘違いを増幅させ、筆舌に尽くしがたい悪夢・惨状(第二次世界大戦の犠牲者は日本人だけで300万人を超える)を招いたのはご承知のとおりである。

零細企業の経営と照らし合わせると、このコンコルドの悲劇からは3つほどの教訓を読み取れるように思う。

まず最初は、埋没費用と事業成功の可能性には何の因果関係も存在しない、ということだ。たくさんカネをかけたことを成功の論拠にするのは心情的には理解できるし、同情の余地は大いにあるのだが、第三者(購入するかもしれないユーザー)はそこにどの程度カネをかけたかを評価の対象にすることはないし、興味も関心もない。あくまで市場に出現したサービスや製品“だけ”を冷徹に評価しているはずなので、ここには因果関係が論理的に存在し得ない。

たまたま成功した例だけがメディアで流布されているだけ(巨額の開発費と汗と涙の美しい物語として展開されると視聴率が取れることになっている)であって、根拠のない多額の資金注入が許されるのはそれが“趣味”の場合だけだ。趣味は「回収を目的とせずにある特定分野に異常な投資を行う行為」と定義することができるが、30万円もする釣竿や、50万円もするカメラなど、他人から見たらアホかと思うような価格のものを、仕事の道具とはせずに所有・利用する場合が趣味に該当する。

面白いのは、私たち全員が他人の趣味を理解しかねると感じているが、自分に危害を及ぼすのでなければ承認・承諾はしている、ということだ。50万円のカメラを購入する下戸のAさんを理解できない酒豪のBさんは、Aさんからは「なぜそこまでして酒を飲まなければならないのかが理解不能な不思議な人」と認知されているはずだ。ただ、それらが趣味の範囲内であれば、AさんとBさんがそれを理由に仲違いすることはないだろう。

しかし、会社経営を趣味の対象にしてしまうといろいろ厄介なことになる。趣味が高じて経営が急降下、などということは日常茶飯事だ。特に零細企業は、限りないく趣味に突っ走ることを可能にしてしまう体制、すなわちガバナンス(governance)が全く効いていない経営になりやすい(それが零細企業経営の面白さでもあるのだが)。

冒険家の社長についていく奇特な社員はさほど多くない。そこで社長としては、意図的に第三者による囲い込みを自らデザインする必要が出てくる。この作業にはなるべく早めに着手したほうがいい。代表的な第三者として、会計士、社労士、弁護士、中小企業診断士、そして保険会社の営業マンなどを「顧問」として迎えておくのがよい。彼らと月1回30分から1時間程度のミーティングを自らに義務付けるだけで、会社の経営は随分と引き締まったものになり、趣味の暴走にブレーキをかけてくれるはずだ。

次に重要な教訓は、自分には自分自身の専門性との戦いが控えていることを自覚することだろうか。何かの専門家であるならば、その当該分野の習熟に膨大な埋没費用を費やしているはずである。ピアニストは、ピアノの練習に幼少の頃から莫大な時間を費やし、欧州まで勉強のために出かける必要があったり、気兼ねなく練習できる環境(e.g 防音設備のある部屋)の設置も必須だ。ところが、これだけカネと労力をかけてもピアニストとして成功する根拠にはならない(多くの場合、成功しない)。

しかし専門家は、その専門性と心中せざるを得ないという宿命を抱えている。専門性は設定したテーマまたは手にした道具により規定される。前者は臨機応変・融通無碍に変更していくことは比較的容易だが、スポーツ選手や専門職に顕著な後者は、どこかのタイミングで人生の大転換を余儀なくされることが多い。専門性の高さは諸刃の剣なのだ。エンジニア社長の難しさはこの辺りにあるのだが、それでも時代の流れにうまく寄り添って生き残っていける人とそうでない人がいる。何が違うのだろう。どうやら「専門性」という言葉の中身にヒントがありそうである。

一つのサンプルを考えてみる。企業が利用するコンピュータとしては、1970年代から1980年代にかけては圧倒的にメインフレームまたはオフコンなる機械が活躍した。ここで利用されていたプログラミング言語がCOBOLというもので、当時COBOLの“専門家”といえば引く手あまただったが、その後のパーソナルコンピュータ全盛時代を迎え、この言語ニーズは一気に縮小していく。ここで生き残れなかった専門家はCOBOLの専門家であり、生き残った専門家は“(COBOLも含む)プログラミング言語の専門家”だった、ということは言えそうだ。

ステージが“一段下のレイヤ”の専門性、すなわちプログラミング言語そのものに対する深い理解があれば言語の種類が何であっても特に困らない。優秀なプログラマは、言語を選ばないはずだ(時代に最適な言語を自分で作ってしまうだろう)。スポーツでいえば野球かサッカーかではなく身体機能の拡張に関する基本的能力、料理でいえば中華かフレンチかではなく食材をうまく活用できる能力、というように、この一段下のレイヤの専門性、つまり“汎用性の高い専門性”こそが生存戦略上のコアコンピタンスになるのではないだろうか。

この汎用性の高い専門性(仮にBとする)は、高度で粒度の小さい専門性(A)と、人であれば誰にも求められる能力であるところの教養やコミュニケーション能力(C)の中間に位置していると考えられる。Aはうまくいくと巨額の富をもたらすが、路頭に迷う可能性も高い(コンコルドの「ニューヨーク-パリを3時間半で結ぶ」という“特殊なニーズ”はこれに該当する)。つまりスタンスとしては“挑戦(チャレンジ)”ということになる。Bは大きく化けることはないが手堅い。否定的な言葉で表現すれば「器用貧乏」ということになるだろう。Cは他人と常識的なコミュニケーションをとるための基本的な能力、基礎体力として誰に対しても求められるものだ。当然、42/54的零細企業の社長が磨くべき能力はBである。

あなたがもしも金槌(hammer)だったら世の中全ては釘(くぎ)に見えるだろうし、あなたがもしも椅子だったら座ってくれる人を求めてさまようことになるだろう。同様に、あなたが原子力の専門家であれば、水を沸騰させることにしか関心がなくなる、というように、特殊な専門性は特殊な世界観を規定する。

そしてそれは“必ず歪んでいる”ことに自覚的でない専門家が大惨事を誘引することは、福島第一原子力発電所事故の後処理を巡る顛末などで明らかになったことでもある。不特定多数の第三者が観察したときの高度で特殊な専門性は、信頼を失う根拠になる暴力装置に化けてしまうことがあるということだ。この“歪みを自覚すること”が3つめの教訓ではないかと思う。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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