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“専門家”としての中年が起業するとき

専門性が高いということは活動領域と人脈が限定的であることを意味するので、その能力は他の業界に移植させるのが難しい。また、経験知が豊富なので課題を抽出する能力と根本的な問題や発生するであろう事象について深く洞察する能力にも優れている。しかも処理速度が速く、かつ自分の能力を客観的に判断できる冷静さがある。しかし、それでもこの「専門性」というものが手放しで礼賛されるべき価値なのかどうかはかなり怪しい。

新聞記事は、そこで報道されていることの大半が自分に無関係だからこそ安心して読める(あれもこれも関係ある記事ばかりだったらパニックになるだろう)。私たちは皆「すべて世は事も無し(All’s right with the world)」と思いたいはずだ(注1)。制度の変更などに伴う記事や気合の入った調査報道や解説は、ありがたくもあり鬱陶しくもある。それに比べれば、特定個人や法人のエピソードに由来する報道は、その内容の如何にかかわらず、娯楽番組のごとく無定見に楽しめる。

個々のエピソード自体は、特定個人・法人に発生しているという意味においてその発生頻度は低いと言えるので、シャノンの理屈(「No.62 少人数でシェアする『情報量の多さ』にこそ価値がある」を参照)に沿った言い方をすれば、情報量としては大きい。情報量は大きいが、個人名が違うだけでだいたい内容は同じである。スポーツ・芸能系のニュースが常に注目されるのは、これが理由だ(勝った/負けた、結婚した/離婚した、など、個人名が違っても発生している事象は同じ)。

起業に関連した報道も同様だ。珍しいと思われる起業のケースは新聞記事になりやすいが、たいていの場合は技術的な斬新さなどがもてはやされているだけであって、起業そのもののパターンはすべてがほぼ同じと考えてよい。

すなわち「何だか面白いと思ったビジネスモデルらしきものや技術があり、数人の仲間と手金(持ち合わせの資金)で会社を作るが、あっという間にカネがなくなるので本当のシードマネーを探しに入る。その間、食うや食わずの生活でしのぐが、大半はここで終了。ごくわずかの会社が第三者増資に成功、数年間経営を継続するが、このステージでも大半がゲームオーバーとなる。

稀に、この死の谷(valley of death)を乗り切ることができる会社が出現、理由は“たまたま”な人との出会いというのが大半だ。ここで初めて記事になる。大企業や大学が最初から支援している場合は、その時だけは記事になるが、その後がどうなったかについては当事者以外は“誰も知らない”(案外、細々と続いていたりする)、といった具合だろう。

ワンパターンなのは中年起業も同様だが、若い人の起業と異なる特徴をひとつだけ挙げるとすれば、起業者は曲がりなりにも“何かの専門家”だという一点に絞り込むことができるところだろう。というわけで、専門性自体が持つ特質に中年起業の特徴がある、という推測が可能になる。

ただし、この「専門家」とか「専門性」というのは相当クセのある概念だと考えておいた方がいい。“イノベーション”が決して世間から期待されているわけではないように、専門性の高さ自体が手放しで礼賛されるべき価値を持っているとは限らないからだ。

専門性が高いということは、活動領域と人脈が限定的であることを意味する。ある特定分野における業務には卓越した能力を発揮するが、その能力は他の業界に転移させることができないことが多い。結果として、起業しても長年過ごした会社でやっていたこととほぼ同じことをやる人が圧倒的多数になる。総合病院勤務から開業医に転身する医師、などがその典型だろうか。

当該分野での経験に基づき、課題を抽出する能力と根本的な問題について深く洞察する能力にも優れている。しかも(意外に思われるかもしれないが)処理速度が速い。良くも悪くも身体知が染みついている。結果的に請負業務などにおいては、発注者のレベルや理解能力の低さにイライラすることが多いはずだが、ここをぐっとこらえる忍耐力がない場合は、とりあえず(A)一人優秀な若い人を採用するか、(B)業務の再委託先を間接的にコントロールする、という役回りに徹したほうが健康的である。

40代の起業ならばともかく、50代も半ば以降の起業はこの(B)がメインの業務になるだろう。有り体に言えば、それまでに培った人脈をどうやって組み替えると顧客に最大価値を提供できるか、ということだけを徹底的に考えること自体が業務になる。具体的には「優れた知り合いに良い仕事を紹介する」という行為になるが、当然それだけでは商売にならない。組み換えるプロセスの隙間に注入する「企画力と経験知」が売り上げの源泉、中年起業のコアコンピタンスである(これはプロデュースという言葉を再定義しているだけかもしれない)。

専門家は、得意な領域についてはマニュアルにはないことをたくさん想起できる能力があると同時に、その自分の能力について客観的(自省的)という特徴がある。自分の専門性の限界を比較的冷静に見極めているという点が顧客から信頼される理由であり、同時に中年起業の限界でもある。

また、顧客の生命や財産に直接大きな影響を及ぼすような専門性(医療・運輸・金融・飲食などが典型的)に関しては、その専門性の最低ライン(多くの場合は国家資格)をクリアしておく必要は当然あるが、同時に最低ラインをクリアしていることが何かを保証しているわけではないことから、顧客サイドでの審美眼(その専門性を見極める力)が重要になってくる。

そのようなミッションクリティカルな業務を除けば、中年起業家の専門性は、そのレベルの高低だけで勝負しなければならない局面はむしろ少ない。例えば、美味しいコーヒーを淹れることについてはとても専門性が高い人が起業しようとするときに重要なのは、コーヒーを入れる能力(専門性)のレベルよりは、その喫茶店がどこに存在するかになる。

ある特定の地域(注2)に、その喫茶店しかなければ、コーヒーを入れる専門性が多少低いレベルだったとしても十分に商売になる。すなわち、専門性はある特定エリアだけで有効なものでもかまわない。どこにでもいるようなありふれた中年の専門性などその程度のものであることが多いし、その程度でいいのだ。

これは最も極端な事例だが、某大手通信会社の技術職を早期退職して、故郷の秋田でイタリア料理店を開店した知り合いがいる。その地域周辺にイタリア料理店が全く存在していなかったので、クルマがなければ辿り着けない場所であるにもかかわらず、ランチ&ディナーとも大盛況だと言う。

古巣に在籍していた時の専門性は全く活用されていない(意外なところで活かされている可能性は否定できない)が、当該地域にイタリア料理店が存在していなかったので、「イタリア料理だぞ」というだけで専門性が発生しているわけだ。

マーケティングが単なる落差の活用であるのと同様に、専門性も状況依存度の高い相対的な価値に過ぎない。グローバルに通用する専門性で世界を巻き込むような天才やアーティストなどはごく一部なわけで、私たちの起業はむしろそういうゲームから離脱し、狭い商圏だけでしか通用しないかもしれないが、そのサービスを販売したり享受しているコミュニティが相互に豊かさを分け合うことができるような、小さいが豊かな関係資本をベースにした社会を作ることにこそ置くべきと思う。

ここのところ「売上2億の壁を突破する方法」というようなメールが盛んに届く。これは何かと調べてみたら、某外資系ITベンダーが自社のツールを売り込むために実施した調査結果の報告レポートだった。極めて貧弱な調査なのだが、この「2億の壁を突破」という甘い囁きに、ついそのデータを見てみようと思う経営者は多いだろう。

しかし、42/54的起業にはむしろ「いたずらに売上を増やすことを拒む方法」が求められている。2億円を突破してしまうと(業種や業態にもよるとは思うが)従業員を増やす必要が出てきて、拡大再生産以外の道が閉ざされてしまうのだ。

自分の周りの会社の状況を観察していると、従業員数が20人から30人を超えるようになってくると、そのような零細企業にも「どこにでもある中堅企業と同じ構造」が求められるようになるようだ。例えば、売り上げには直接関与しない総務系スタッフが3人以上必要になる、自己資本比率が急激に低下せざるを得なくなる、など経営者の意図とは無関係に拡大せざるをえなくなる方向に会社の組織自体が自己増殖しようとし始める。

中年起業家にとっては、それはむしろ余計なお世話だろう。そこそこの売上高利益率を何十年もキープし続けているが、売り上げ自体はたいして大きくなっていない、という状態がベストのはずである。身を粉にして働ける年齢ではないし、また(健康問題等からも)そうすべきではない。時間の裁量権確保に対しても神経質でありたい。

その意味において、何百年も続いているのに少しも大きくならない老舗には、私たちが学ぶべき何かがあるのだと思うが、彼らにとっても未体験ゾーンなのが「デジタルの利用」にあるのではないかという予感がする。これが敵なのか味方なのかがはっきりしないのだ(注3)。

注1)
上田敏の訳詩集『海潮音(1905年)』の中で紹介されている、ロバートブラウニング(Robert Browning)の詩「春の朝」の一節。訳詩というのはほぼ創作と言ってもいい、ということがよくわかる実例である。

注2)
「山の向こうは別の村、川の対岸は隣町」というように、私たちの地域に対する認識は視覚的な判断が幅を利かせていることが多いが、筆者が見聞きした範囲で一番説得力があるな、と思ったものの一つに「同じ寺の鐘が聞こえる場所こそが同じ地域」というものがある。日本各地には10万社を超える神社が存在している。ただし管理主体がはっきり存在するのは3万社程度で、これはセブン-イレブンの店舗数とほぼ同じ。また、市町村合併を繰り返しても小学校の名前は変わらないことが多く(古い地名が小学校名として残っている)、全国に点在する小学校の数は平成19年時点で22,693校(文部科学省のデータによる)であることも気に留めておきたい。先の震災の時に比較的有名になった話の一つに「避難する時は寺まで駆け上がれ」というものがあった(お寺は天変地異に対して堅牢な場所にあることが多く、歩いていける範囲で最も近傍にある避難場所、とされている)ことも付け加えておく。

注3)
42/54の3人は多分このあたりについての考え方に知見を持っているのではないかと思ってみたり(相当手前味噌ですが)。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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