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すべての記事は広告の一形態である

広告はある特定のスポンサーが特定のメッセージングのために費用を負担している。一方、同じメディアで記事と称するものを生産するための費用は読者が負担している。1社が多額を費やして費用を負担している広告も、たくさんの人から集めたお金で作った記事も、メディアの当事者ではない第三者による金銭の贈与を前提にしているという意味においては同じである。このように、基本的に全ての公衆向けメッセージは広告であるという基本構造を理解しておかないと、「記事と広告の区別が云々」と言った初心(うぶ)な議論に血道をあげることになってしまう。自分が作った会社をPRしていくときに多少は参考になると思うので、このあたりの話題をご提供しておく。

プレゼンテーション(presentation)とアジテーション(agitation)やプロパガンダ(propaganda)の間に明確な線引きをするのが難しいことからもお判り頂けると思うが、すべての公(おおやけ)にされているメッセージや表現は基本的にすべて広告である。

仮にある記事が「これは広告ではなく記事です」と宣言していたとしても、その記事は(広義の)広告である。今筆者が書いているこの文章も一見記事のように見えるが“本質的には”広告である(さっさと起業しろ、というプロバガンダを根底に流しつつも、表面的にはおとなしいコラムのふりをしているだけである)。

記事は広告という集合の一部(部分集合)または変形に過ぎない。だから「これは広告です」などという表記も実は不要である。どんな記事であれ、それは広告なのだ。

周知のように英語では広告のことを「advertising」といい、「広告であるためには幾つかの要件を満たさなければならない」としているが、正直、この定義はかなり苦しい。と同時に(歴史的な背景があるのだろう、くらいの想像はつくが)なぜこのようにわざわざ定義する必要があるのかが不可解である。広告業界という業界を作ることが目的化した定義に見える。

あるメディアで「これは広告、これは記事」というように明確な区別をしていたとしよう。広告はある特定のスポンサーが特定のメッセージングのために(多くの場合、1社で)費用を負担している。一方、当該メディアで「記事」と称するものを生産するための費用は読者(および広告主の一部、正確には広告収入の一部)が負担している。

1社が多額を費やして費用を負担している「広告」も、一人当たりの負担は小さいが、たくさんの人が寄付に近い形で費用負担している「記事」も、メディアの当事者ではない第三者による金銭の贈与を前提にしているという意味においては同じである。不特定多数から小銭を巻き上げることでできた記事と、1社が気前よく払ってくれたまとまったお金を原資にして作った記事に本質的な差はない。

このように、基本的に全ての公衆向けメッセージは広告であるという基本構造を理解しておかないと、「記事と広告の区別が云々」と言った初心(うぶ)な議論に血道をあげることになってしまう。筆者自身メディアを運営しているので「広告と記事の区別を明確にせよ」という“業界の慣例”に渋々従っているが、腹の底では「お前は根本的なことが何もわかっていない」と思っている。妙な言い方になるが、自分の活動自体が広告だという謙虚さと冷静さを併せ持つジャーナリズムほど信用できる。

その意味で最も信頼に価するのが、いわゆるSTEM系(Science, Technology, Engineering and Mathematics)のリサーチャー(研究者)の論文だ。彼らが「発明」という言葉を使うことはほとんどない。あくまで「発見」だ。そこでは、自分が発見しなければ他の誰かが発見したはず、つまり「もともとそこ(自然界)にあったもの」をたまたま自分が見つけただけだ、という謙虚さに溢れている。

さて、クオリティマガジンの創刊時に死守しなければならないのは、高品質な記事や仕掛け(写真や図版など)ではなく、当該雑誌へ広告を掲載(出稿)する場合の広告掲載料である。これはべらぼうに高くしておくのが良い。広告品質が高いことを広告掲載料で示すことで、その中に含まれる記事の品質を高いものとして維持している、という幻想を販売することが可能になる。

調子が悪くなってきた時(雑誌があまり売れなくなってきた時)に(広告掲載料を)値引きしてでも雑誌を維持しよう、などと考えてはいけない。ブランドエクイティを死守したいのであれば「武士は喰わねど高楊枝」を堅持しつつ、潔く休刊(=事実上の廃刊)の準備に着手すべきだろう。

書籍もまた広告の塊、すなわち著者が個人的に主張したい特定のアジテーションを伝達するための手段である。加えて、書籍を執筆するためには膨大な読書量が前提になるはずなので、優れた書籍ほどたくさんの書籍からの引用が増えるはずだ。結果として参考文献リストが充実しているはずで、これがない書籍はクソ(広告としては品質が低い可能性が高い)だと考えて良い(良書もまた知性の排泄行為の一部に過ぎないという議論もあるのだが、このあたりはとりあえず脇に置いておく)。

入手した膨大な情報の中から、ある特定のプロパガンダを生成し、残りをすべて捨ててしまう作業が編集であり執筆だ。どの方向性のプロパガンダにしようか、と考えた時点ですでにその行為が「広告(ある特定のメッセージを広く告知したい)」なのだ。その行為と内容に共感してくれる人が多いとたくさん売れることがある、というだけの話である。

メッセージングに伴ってお金の動きがないものでも、それが特定または不特定の多数の目に触れることを期待している行為であるならば広告である。例えば大きな事件が起きた時に「号外」が無料配布される場合があるが、これを(内容が何であれ)新聞社自身による広告と受け取ることに違和感がある人はいないだろう。

号外をばらまいて、それを受け取った人の一部でも本紙を購読していただければ本望、ということを期待して無料配布しているのである(号外を配布している状況をテレビに中継して欲しいと思ってさえいるはずだ)。なるべく多くの人の目に触れたいと考え、それにふさわしい手段を遂行した段階でそれはすべて広告、あるいは広告的行為とみなすことができるのであって、金(カネ)が云々という議論は実は枝葉末節に過ぎない。

読者にとって重要なのは「それが記事か広告か」ではなく「役にたつか、立たないか」である(注1)。役に立つ広告と役に立たない広告の分岐点はその広告の中身には存在しない。広告的価値は受け手(広告の受容者)の状況に依存する。広告や記事の品質というのはそのコンテンツ自体に内在する性質ではなく、それを受容し、活用しようとする人の態度や文脈の中にある。従って、その広告に絶対価値は存在しないし、良し悪しはその人の状況次第である。

なぜ「専門誌」なるジャンルがあるかというと、受け手(読者)のコンテクスト(文脈)を“効率的”に絞り込む(ターゲティングする)ことができるからに他ならない。つまり、広告のためのコストを安上がりにするための技術論のひとつである(その意味において、誰が見るかわからない新聞や地上波の編成がとてつもなく大変な作業であることがわかるだろう)。

全ての公衆向けメッセージは広告なので、それを受け止める受容者の態度にある種の能力が要求される。むしろ「心の底から良かれと思って、無償でやっている言論活動」にはより一層の注意が必要だ。ここでは「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)」を地で行ってるケースも多い(注2)。

ただし、例えばレーニンが標榜した社会主義は現時点では「ある程度失敗している」と言える可能性は高いが、300年後も同様の低い評価なのかどうかは正直よくわからない。私たち人間は寿命の範囲程度でしか物事を判断できないという謙虚さも必要だろう。

ある病気を本気で治そうと考えている人ほど、怪しい健康情報サイトで記載されていることの信憑性が低いことを一発で判断できる。もしも、そのようなメッセージに“踊らされている”人がいたとしたら、それは「そのメッセージに踊らされていて良い」程度の真剣さで済む幸せな状態なのだと思われる。

病気が深刻であれば、嘘と欺瞞を積み重ねていた時代が長かったメディアの情報など、刺身のツマ程度のものに過ぎないことを知っているはずだ(従って、似たような立場の人だけで閉鎖的なコミュニティを作っている可能性が高い)。第三者から言われるまでもなく、セカンドオピニオンやその他様々な情報源をリサーチし、自分の中で確信が構築できるような作業を煮詰めていく時に、メディアの情報は参考情報以上のものにはならない。病気には明確な「個体差」が存在することが多いので、不特定多数向けの言論が参考になるわけがない。

信頼性、ということになるとネットメディアが特に問題の遡上に挙げられることが多いが、これはむしろ逆である。ネットメディアは、仮にそれがメディアのような体裁をとっていたとしても、相互に監視しあうコミュニケーション空間以上のものにはならない。ドットの明滅(消えることが前提になっている)であるディスプレイ上の文字は、喋ったそばから消えてしまう電話の会話と同じなので、ディスプレイを使ったメディアは本質的にどこまで行ってもコミュニケーションの拡張でしかないのだ。従ってここに、ある種の自浄作用が働く。むしろ強大な議題設定機能を背景に暴走することが許されている従来型メディアの方がタチが悪い。

「炭水化物ダイエット」なるものが流行の兆しを見せると同時に、これが極めて不健康なダイエット方法であるという“反論”が情勢を覆す、などという茶番が相変わらず繰り返されている。このような主張も、そしてまたそれに対する反論も「広告」である。食品に関する議論や広告が不毛なのは「ある特定の食材には単独で食品ジャーナリズムを語る資格がない」というごく基本的な知見が共有されていないことに起因する。

どんなに優れた食材であろうと、それを過剰摂取した状態が健康的であるはずがないし、それが食品であるのなら絶対食べてはいけないというものも存在しない。全ては程度問題であり、食品を通じて健康を実現することに関しては、「バランスをとる」という結論だけが唯一の正解なのだ。ただし「バランス」という言葉の最大の弱点は「面白くない」という点にある。「バナナでダイエット」というメッセージも「納豆健康法」なる記事も単なる広告なのだが、面白く感じてしまうのである。

昔、あるマヨネーズ・メーカーの経営者を取材したことがある。その時がたまたまマヨネーズ・ブームだったこともあり、「マヨラー」などというくだらない言葉が流行していた。(大儲けして)笑いが止まらないでしょう、と水を向けてみたのだが、「いやー。それ逆なんですよ。困ってるんです」という。マヨネーズを“過剰摂取”して体調を崩した馬鹿が「マヨネーズのせいでおかしくなった」と続々とクレームを入れてくるのだそうだ。日本人の食品リテラシーの低さに愕然するエピソードだ。

バランスから逆算した時の、食事に対する正しい態度も一つしかない。それは「最近食べてないものを食べる」ということに尽きる。それがポテトチップスだろうが、フォアグラだろうが「最近食べてないなあ」と感じれば、それは体の自然な要求のはずである。体は、自然の摂理と気候(旬)と体調に基づいて足りないものを要求するはずなので、それに従うのが基本的に正しい(食品アレルギーは除く)。

しかし、いかんせん「バランス」という言葉が出現してしまうとまったく面白くない話にしかならないという致命的な弱点がある。「オクラ!ネバネバパワー新伝説 」とやらないと視聴率が取れないのである。これが前述の「従来型メディアによる議題設定」の一端だ。実際には、オクラ程度では済まない深刻な事態に陥っているのが、現状のメディアを取り巻く状況ではある。

注1)
この「役にたつ」という話しはさらに深める必要があるのだが、別項に譲ることにする。
注2)
サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)の語録として知られている。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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