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言葉にはそれ自体にポテンシャルエネルギーがある

私たちは言葉の使い方一つで妙に元気になったり、必要以上に悲観的になったり、あるいは勘違いしたり、ということを繰り返している。しかし会社を作ってしまう人に共通する傾向は概ね“楽観的”というところにある。従って、起業するときにはポジティブな言葉を多用し、ローコストに自分自身を励起状態に持っていきたいところだ。しかし語源などを調べていくと、私たちが日常的に使っている言葉には負のエネルギーをもたらすものが数多く散りばめられているのも確かだ。あまり使うべきではない言葉を長年の癖で使ってしまうのは知らず知らずのうちに自分にダメージを与えることがあることに注意しよう。

(ずいぶん前になるが)「東京R不動産」なるウエブサイトが立ち上がった時に「ああ、これは広告会社の仕事だな」と直感した。不動産データベースは基本的に業界で共通のものを使っているはずなので、物件情報の量そのもので差をつけることができない。そこでこの会社は「新手(あらて)のコピーワークによる物件イメージの変更」を差別化要因として採用した。築50年のポンコツ物件は「レトロ」と言い換えてしまえば良いし、妙なところに台所が設置されている使いにくそうな物件も「主役はキッチン」と言い換えてしまえば魅力的な演出が可能だ。

意外性のある言葉自体に内在しているエネルギーを最大限活用しよう、という考えかたはそれほど下品ではない。言葉とはそもそもそういうものである。「オイシックス」の「トロなす」だの「濃緑肉厚ピーマン」も、一所懸命に名前を考えたフシが垣間見えてなかなか微笑ましい。詐欺は犯罪になってしまうが、言葉一つで元気が出たり、おいしく感じる(味覚の大半は味蕾よりは情報から与えられる)のならどんどん使ったほうがいい。誰かに迷惑をかけるわけではないし、何よりも安上がりである。

人にエネルギーを与える、という意味においては口語体よりは文語体が圧倒的に有利だ。いわゆる候文(そうろうぶん)は表現が厳密になり、リズムが生まれる。「ここで負けたら大変なことになるので頑張ろうね」と言われるよりは「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」と言われたほうが武者震いするだろう(注1)。俳句や文部省唱歌なども大半が文語体だが、この例のように戦時中の訓示などに用いられることが多いので、あまり印象が良くないのが弱点ではある。

ともあれ、言葉の使い方一つで妙に元気になったり、必要以上に悲観的になったり、あるいは勘違いしたり、ということが多いので、起業するときにはポジティブな言葉を多用し、ローコストに自分自身を励起状態に持っていきたいところである。しかし(筆者も含め)つい、あまり使うべきではない言葉を長年の癖で使ってしまうことも多い。

無自覚にそのような言葉を使うのは、知らず知らずのうちに自分にダメージを与えることがある。以下に「それってそんなに問題ですか?」と感じるであろうサンプルをいくつか紹介する。単に筆者が嫌いな言葉を並べただけと捉えてもらっても構わない。

1) 「やはり」
「やはり」は言語学的には前提を含む副詞だが、会話で使われるときには「“やはり(やっぱり)”に続く自説については君と議論するつもりはないよ」という意思表示のために使われることが多い。「やっぱり取材力ならNHKでしょう」という意見は、それが朝日新聞かもしれないし文藝春秋かもしれない可能性については拒否する、という宣言であり、本当のところはどうなのかということについてあなた(たち)と議論するつもりはない、という強い主張が感じられる。

ただし、このNHKの例は議論としては微妙なところ(賛同しにくい可能性がそれなりにあるように思える)なのでまだいい。「やっぱりランチは焼魚定食だよね」と言われたら、特に主張がなければ彼の後について定食屋にぞろぞろ入っていくことになるだろう。問題として根深いのはむしろこちらだ。「やっぱり労働時間は短い方がいいよね」といったような否定しにくい暗黙の合意で「やはり」が利用されると“沈黙の螺旋”になることが多い(注2)。

2) 「要するに(ようするに)」
「いろいろ説明したのになんだかわかっていないようなので、馬鹿にもわかるようにかいつまんで単純に説明すると」をものすごく短く表現すると「要するに」になる。「物事は簡単に説明できる」及び「お前はものわかりが悪い」という二つの不愉快な前提がカップリングされている。

実は、数年前にある経営者とあるプロジェクトを進めていた時に、その経営者がこの言葉をやたらと多用することが妙に気になった。このプロジェクトは頓挫し「この馬鹿野郎のおかげで失敗した」と確信したことから「馬鹿経営者は“要するに”を多用する」と直結してしまった。筆者もこの言葉を多用する馬鹿者として大いに反省しているところである。

3) 「社内公用語(しゃないこうようご)」
少々意外だが、日本の公用語は日本語かと思いきや、法律でそれが定められているのは裁判所法第74条(=“裁判所では日本語を用いること”)のみであって、その他の場面での公用語の規定はない。事実上、日本に公用語はないのだ。この融通無碍なところが日本語の特徴でもある。外来語を積極的に取り入れてカタカナで表記してみたり、海外では全く通用しない和製英語で意思疎通ができるのは日本語という言語の冗長性と柔軟性を示している。

日本国民としてはこれを強みにしない手はないはずだし、国家でさえ公用語を設定していないのに、「社内公用語は英語にする」などという意味不明なローカルルールを作って「グローバル対応だぁ」などと胸を張っている経営者が散見される。世間的には成功者ということになっているこの人たちの「アタマの中がおかしい」とは言いにくいので、誰もそう口には出さないだけであろう。社員にしてみれば「ここは日本だけど、米国でしか使われていないボールを使って野球をやれ。文句言わずにやれ」と言われているわけで、こういう無能な経営者の下で働かされるのは同情に値する(さすがに馬鹿馬鹿しさが浸透してきたようで最近は話題にもならないが)。

日本語に堪能な日本人同士が英語で会話しても、日本語をよく理解しているという暗黙の合意がある前提での思いやりに溢れた英会話になるので、海外では通用しない英語が阿吽(あうん)の呼吸で通じてしまい、語学力が全く向上しないのである。

5) 「大量生産・大量販売(たいりょうせいさん・たいりょうはんばい)
実に古臭い価値観だ。もはやそういう時代は終わったのだ。もっとも「50年も続いてしまった」とも言える。(どこからが“大量”なのかの判断は困難だが)どの業界においても法律で禁止すべきであろう。最近は「300万人の会員」といったような意味不明な言葉を聞くと吐き気がするようになってきた。

6) 「労働生産性(ろうどうせいさんせい)」
これは難しい言葉だ。常識的に考えれば、労働生産性を上げろ、とは「単位時間当たりに産み出す一人当たりのGDPは大きい方がいい」ということになるのだろうが、「果たしてそれは本当か?」というところが問われているように思う。

経営者の立場からすればこれは高いほうがいいに決まっているのだが、国全体で積算した時に、それが本当に幸せなのだろうかと考え出すとよくわからない。何を持って“豊か”と定義するかによって労働生産性の高さが礼賛されるべきかどうかは微妙なのだ。ダラダラと残業しつつ終電まで居酒屋で同僚と床屋談義で盛り上がり、翌日の出勤は昼くらいという毎日を送るサラリーマン(メディア企業に多い)など、労働生産性は最低だが、個人としては実に豊かな人生を送っているように見える。

「簡単だ。総労働時間に法的なシーリング(天井)を作ってしまえばいいのだ」という意見も承知しているつもりではあるが、労働が「自分以外の人の役に立つ活動」だとすると、時間という変数とは実はかなり相性が悪い。例えば看病や介護のように、ずっと(長時間)そばに寄り添ってくれていたが、特に何かを産み出したわけではない活動が全く評価されなくなってしまう。ごく普通に使ってしまう「労働時間」という言葉の使い方は案外難しいのである。

7) 「待ったなし(まったなし)」
待ったなしと言ってるくらいだから、その“待ったなし”の課題は遅くとも当日中くらいには処理するに違いないと無邪気に信じていたのだが、大人の世界にはいろんな事情がある。「急いだほうがいい」程度のニュアンスに過ぎない事が多いので、わざわざこの言葉を使う必然性が感じられないことも多い。なにしろ「待ったなしだ」と言いつつ数年くらいは待ってくれてたりする。

恫喝的に使っているつもりにもかかわらず、語源が相撲なので、なんとなく“儀式の香り”がする優しさのある言葉になってしまっているのだ(実際、相撲は行事がいくら大声張り上げようと「待った」だらけである)。数年前に当時の民主党の党首が盛んにこの言葉を使っていたにもかかわらず何も解決しなかった、ということも関係しているのかもしれない。

8) 「先行き不透明(さきゆきふとうめい)」
当たり前である。先行きが透明になったら世の中はパニックに陥るだろう。

注1)
日露戦争で連合艦隊司令長官である東郷平八郎が使った言葉ということになっているが、この文案自体は参謀の秋山真之の作らしい。「天気晴朗ナレドモ浪高シ」も彼の作品だが、ここまで短くすると候文どころか電報文でさえなく、暗号に近い。それにしても最近は、司馬遼太郎のような作家の小説をぼやっとしながら読む時間が全くない。零細企業の社長という職業は、豊かさとはかなり縁遠いのかもしれない。気分はほとんどタコ社長である。

注2)
新聞の一面のトップニュース、朝の地上波での第一報のニュースのように、メディアが「これが一番大切なニュースだ」と主張することを「メディアの議題設定機能」という。それが視聴率の高い番組だったり、部数が多い新聞だと、それを見た読者は「他のみんなもこのニュースを大切だと考えているはずである」と感じてしまう。実は、そのような全体の総意はどこにもないのだが、「みんながそう思っているはずと確信しつつ」「それをあえて口にはしない」という状態を“沈黙の螺旋(らせん)”と言う。よくも悪くもこれが大きな輿論に発展することがある。なお、この「やはり」に関する論考は完全に早稲田大学の福澤先生のパクリである。興味のある方は『議論のルール』あたりをご一読いただきたい。

 

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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