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ワークライフバランスという言葉は何がおかしいか

私たちが当たり前のように受け入れていた“定年”という制度は、厳しい言い方をすれば、年齢を根拠にした一種の就労差別である。今まではそれでも良かったのかもしれないが、寿命が驚異的に延びてしまった今、その致命的な欠点を露呈しているように見える。ワークライフバランスという言葉はこの“定年”という制度・悪癖と実に相性がいい。しかし、仕事がある日突然、強制的に終了させられてしまうという不自然な制度による悪影響から逃れるには、起業してONもOFFもない状態を作っておくのがベストだ。この状態の“価値”は実際に起業してみないとわからない。そして(おそらく)死ぬまで有効である。

下記、日本を代表する仮想ネットワークの専門家である東京大学・中尾教授の「スライシング(slicing)」という通信関連技術に関する記事だ。少々長くなるが引用する(この記事は、筆者による中尾氏へのインタビューから再構成した。掲載した「5GMFサイト」全体のプロデュースと運営も弊社が行っている)。

ネットワークをデータを配送するためのパイプ(土管)に見立てた場合、従来のネットワークでは複数の種類のデータを1本のパイプで移動しているようなものでした。ネットワークスライシングは、1本のパイプを、データの種類毎に「独立(isolate)」した複数のパイプに仮想的に分割し、かつ、各々のパイプに計算能力やストレージを備えることにより、インテリジェントかつダイナミックに構成を変えることができるパイプに進化させる技術です。求められている要件が全く異なるデータが混じってしまうとネットワークの特性をうまく制御できない。したがって、スライシングにします。スライスとは、上記の「独立した仮想的なパイプ」と同義ですが、技術的には、ネットワーク資源(データ転送能力)、計算資源(データの処理能力)、ストレージ資源(データの貯蔵能力)の塊を輪切りにしたものですから、資源の集合体でもあるし、機能の集合体でもあります。(5GMFサイトの「Extreme Flexibilityの実現」より引用)

なぜこれを長々と引用したかというと、実はこのインタビューを行っている最中から「これ、ネットワークを人生(Life)に置き換えてもそのまま通用するではないか」と感じたからだ。

私たちの人生は“80年程度の長さ”の太いパイプに見立てることができる。この太いパイブは、直径が異なる何本かの細いパイブの束(たば)として構成されているが「食べる・眠る・移動する・会話する」という4本のパイブが最も重要で太いパイブであることに異論のある人はいないだろう。

例えば(レンコンの輪切りをイメージして欲しいのだが)パイプをある1日という断面でスライスしてみると、普通の人は「眠る」だけで1/3程度(=約8時間)の面積を占めているはずだ。この主要な4本のパイブのそれぞれの太さは個人差や年齢により変動するが、決して仕事のためだけにあるわけではないし、遊びのためだけにあるわけでもない。というよりも、そもそも区別がつかない。「ONもOFFもなくなる」というのはそういうことだ。

しかし“ワークライフバランス”という言葉は「人生という太いパイブはライフ及びワークという2本のパイブで出来上がっている」という前提を押し付けているように聞こえる。ここに違和感を感じるわけだ。理由が2つほどある。

違和感の理由その1)
対立するわけではない二つの概念を並べ、そのバランスをとるというところからして言葉としておかしい。

例えば「攻撃と防御のバランス」は意味として破綻していない。しかし「私学(A)と大学(B)のバランス」という言葉は「なんかヘン」と気がつくはずだ。AはBの部分集合だからである(「私学と国公立のバランス」なら意味としては成立する)。「流動負債と貸借対照表のバランス」などという妙な日本語が存在しないように、通常、同じ次元(dimension)に存在するもの同士でなければバランスをとる対象にならない。

百歩譲ってワークがパイブであることを認めるにしても、どう考えてもライフの一部なので、これを対立概念・比較対象として並べるのは奇妙なのだ。ヘンな和製英語作りやがったなと思いきや、なんとこれ、ちゃんとした英語である。つまりこのまま英語圏で通用する。嘆かわしいことにOECD(経済協力開発機構)でさえ使っている。「Finding a suitable balance between work and daily living is a challenge that all workers face.」なんだそうである(全く同意しないけどね)。

違和感の理由その2)
ライフ(人生の仕事以外の部分)というパイブの中にワーク(仕事)という少し太めのパイブがありますよね、これを適切な太さにとどめておきましょうね、というメッセージは一見問題なさそうだ。しかし、最終的には必ず下記のような「職場と墓場の間をどう生きるか」というような絶望的な議論に帰着することを許容あるいは推奨するスタイルなのだ。そのきっかけが「定年」である。

あなたは「終わった人」ですか?(NHK)

定年から墓場までがさほど長い期間ではなかった時期はこれでもよかったのだろう。しかしもはや時代は変わった。定年という時期が来ると自動的かつ強制的にその時点で仕事というパイブがスパッと切断され、仕事パイプが占めていた面積×長さ分だけ、下手をすると30年以上の空白の時間が延々と続くようになってしまったのが現代だ。その余白を仕事以外のもので埋めていくのは至難の技、というか普通に考えて無理だろう。

定年という当たり前に受け入れていた制度は、寿命が延びることでその制度の致命的な欠点が露呈してしまったのだ。「定年延長」だの「5年間の再雇用」だのは、いかにも小手先の、そしてその場しのぎの便法に過ぎない。厚生労働省の「高年齢者雇用安定法の改正」を見ると様々な法令が準備されているが、唯一共感できそうなのは定年制の廃止くらいだろう(ただし、2016年現在、定年制の廃止を表明している企業は全体の2%程度に過ぎない)。

いずれにせよサラリーマンであれ経営者であれ、前述の4本のパイプ(食べる・眠る・移動する・語る)の存在を前提とした方がごく自然な人生(Life)であることに共感いただけると思う。中小企業経営者には「ONもOFFもなくなる」という考え方には100%同意いただけると思うが、実はサラリーマンでさえその区別はそもそも曖昧なのだ。

例えば「職場の同僚と飲みに行く」というのは仕事だろうか遊びだろうか? 売上を上げているわけではないから仕事ではなさそうだが、仕事の話を全くしていないかというとそうでもない。突き詰めて考えると判然としないはずである。

日曜日に仕事上の良いアイデアが思い浮かぶなんてことはごく普通にあるし、オフィスにいるときに仕事だけに没頭していたら、そこに何年も勤務するのは無理だろう。いわゆる家事労働(shadow work)は、一般的な意味での経済活動ではないかもしれないが、カネを産む仕事以上に価値のある仕事だ。仕事と家庭は対立概念ではなく、ワークは本来ライフに溶け込んでいるはずである。

前述の4本のパイブは、生きていくために必要な最低限の機能ではない。この機能を駆使して何か別の目的を達成(e.g.世界制覇)するために私たちの人生があるわけでもない。この機能は実は“目的”そのものに他ならない。「おいしいご飯をいただいて、たくさん眠ってスッキリして、たまには旅行に出かけ、そしていろんな人たちと語らう」ということ以上に何を求める必要があるだろう。その意味においても(仲間を褒めるのもどうかとは思うが)、下記の田邊の言説は(さらっと書かれた文章ではあるが)けだし名言であると言えよう。

自分の会社を作って独立したら、雇われていないのでもうONもOFFもありません。42/54的なライフスタイルの最大の特徴がこれではないかと思います。仕事も趣味も出張も旅行も、すべてが自分の生活です。呼吸をし飯を食うように、仕事も遊びも何もかもが自分の人生であり生活の一部なのです。雇われているからこそ、OFFが必要になるわけで、自分ひとりで生きていくという状況では、ONもOFFもありません。(2) 自然にONもOFFもなくなる – 42/54

端的に言えば「人は死ぬまで働く方が健康的」ということで、そのためには自分の会社を作った方がラクですよ、というだけの話である。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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