“家族”という言葉から大多数の日本人が頭の中にイメージするのは、“標準世帯”だろう。生命保険や住宅のCMで典型的な家族として描かれることの多い、夫婦と子供2人によって構成されている世帯だ。
しかし、この形態がもっとも“標準的”だと信じて疑わない人はさほど多くないだろう。“標準”が代表的なサンプルのことを指すのなら、現代の標準世帯は“単身世帯”のはずだ。それを踏まえると、標準世帯の定義と家族という概念が近いところにあると考えるのは少々無理がありそうである。
「血縁関係を軸に数人で構成され、生活を共にするもっとも結束力の高い集団が家族である」と言い切るのも難しい。そもそも、夫婦(婚姻制度)からして基本的には“他人”であり、血縁関係がない、もしくは希薄だからこそ結婚できる。
そして、自らが“複数の家族”に所属してもいる。つまり、自分自身は自分の子供の父親であり、かつ同時に自分の父親が主宰する家族における息子でもあり、自分の子供がまた新しい家族を作るであろうことなどである。
こういう見方をすれば、家族というのは何かまとまったグループというよりは、もっと流動的なバトンリレー、太古の昔から続く川の流れのようなものと考えるほうが妥当かもしれない。この“流れていく家族”において重要なのは、血縁関係よりは一緒に過ごす(あるいは過ごした)時間の長さになるはずだ。
ゴルフが接待に有効なのは、一緒に過ごす(過ごさねばならない)時間が長いにもかかわらず(早朝から夜まで、さほど仲がいいわけではないおっさん同士が時間を共にすることができるものは他にあまりない)あまり余計なことを喋らなくて済むからだ。付き合い始めたばかりの若い男女のデートに映画が向いているのと同じ理由である。
重要なのは、1)長い時間を一緒に過ごすこと、2)その長い時間を過ごさねばならない理由そのもの(e.g. 前述の例で言えば、ゴルフまたは映画)が嫌いではないこと、の2点になる。自分の好き嫌いが明確になり始める感受性の強い3年間の高校時代を一緒に過ごした仲間の中に親友が多いのは、これが理由ではないかと思われる(あくまで筆者の場合だが)。
零細企業においても、血縁関係のある馬鹿息子よりは、長い時間を一緒に過ごした仲間(正社員や取締役とは限らない)や取引先に“家族”を感じることになるだろう。つまり家族とは、自分の近傍に存在する強い社会関係資本(Social capital)のことを指す、と考えるほうが、少なくとも経営者にとっては自然だ。
かつての零細企業における家族経営はそのまま同族経営を意味していた。創業者一族が経営権の大半を支配し、かつ資本と経営がほとんど分離していない状態である。しかし、前述のように単身世帯がこれからの標準だとすると、このような同族経営は少しづつ減少し、代わって増えてくるのが本当の意味での家族経営、すなわち社会関係資本ベースの経営になると予想される。そこでは役職などの上下関係自体が希薄になるだろう。
日本国内においては長い間、(特に事務職における)長時間労働とそれに起因する低い労働収益性はセットになっていた。夜遅くまで残業をこなした同じ仲間と終電まで飲むという現象がごく普通にあることからすれば、長時間を一緒に過ごす価値を体感的に理解していた可能性が高い(ただし、労働密度が低いから長時間残業になるという側面も否定できない)。ともあれ、長い時間を一緒に過ごした人は大切にしたほうがいい、ということは間違いない。
次に論点を2)に移す。ここでは、長時間を一緒に過ごす必然性を感じさせる理由を問題にする。この理由が一致していれば長時間一緒に過ごせる、という言い方もできる。
ここで、うちのスタッフが面白い論文の存在を教えてくれた(※1)。この論文(『差異の工学』)自体は、民族紛争というものがどのような形で起動するのかを工学的に分析しようと試みたものだ。二人の人間の間には二人を記述する際に無限といっていい差異(性別、出身地、宗教の差、言葉、年齢、服装、その他多数)がある。この差異のうち、どれをどのように採用しようとするかは完全に文脈に依存するという。午前中の都道府県別高校野球大会でいがみあっていた富山出身者と新潟出身者が、午後のオリンピックでは一緒に日本代表を応援する、みたいな話である。
以下、少し長くなるが引用する。
民族の問題は、ある種の客観的な基準に基づくものという理解に引っ張られる 。しかし他方、エスニックアイデンティティを語る論者は、それが文脈毎に多様な意味を持つという、ごく当たり前の事を指摘するだけで、何故特定の差異が他の差異よりも問題構成の前面に析出してくるかを旨く表現できないできた。民族というのは一つの過程であり、時間軸によって歴史的に変動するプロセスである。それはある特定の差異に基づいて歴史的に構成されるが、その差異が選択される過程 には、ある種の偶発性(contingency)の存在がある。つまり、ある集団と他の集団の関係を規定する無限の差異の全てが、民族というエンティティーを構成する訳ではなく、ある特定の差異が、他の差異に優越して、ある種のドミナンスを要求する様になるためには、一種の歴史的な偶然が左右するという事なのである。
それはいわば『差異のアクティベーション』とでも呼べる過程である。 つまりある問題が生じたとき、その間題の原因が数ある差異に由来するのではなく、ある特定の差異に由来するのだ、と回帰的に指摘される過程である。生活環境の悪化が引き金となってある種の紛争が勃発するというのは歴史上しばしば観察される出来事であるが、経済的な対立がある種の問題構成の引き金となるということも大いにありうる。 しかもそれがマルクス主義者が期待するような階級闘争に発展せずに、別の差異のシステムに転化される、つまり金持ちと貧乏人の間の紛争が、例えばマレー系と華僑の間の対立として、いわば別の差異に写像されるというのがここでのポイントなのである。
ここで重要なのは、ある特定の差異の存在が、直ちに紛争の原因になるということはないという点なのである。つまり言語や宗教や居住の差といったものが、直ちに強固なアイデンティティの核になる訳ではない。民族紛争たけなわの現場からこうした問題を遡及的に考察する場合、我々はそうした差異こそが紛争や対立の原因であるという常識に捕らわれやすい。しかしそれは、この差異のアクティベーションと、その転化のメカニズムについての理解の不足がもたらした錯覚であり、前述したように,様々な差異の存在は、それが差異であるというだけでは、決定的な実体化はもたらされず、あくまでも状況的に規定されるだけの存在でしかないのである。
面白いので是非ダウンロードして読んでみてほしい。
この論文自体はトラブルの発生をケースとして取り上げているが、これは仕事をうまくやろうとするチームがより良い協調行動を行っていこうとするときにも適用できる話だ。すなわち、二人以上の人間の間に存在する様々な差異の中で、ごく特定の共感できるところだけをアクティベートできれば、わりと仲良くできるかもね、という話になる。
初めて会う人たち同士が会議をするときにまずは共通項を探せ、というアレである。「おたく出身は?」「島根です」「 ええっ! 実は私も」という展開にでもなればもうその場で“親友”が出来上がる。カップヌードル(※2)よりも即席である。会議に参加している任意の2人を抽出したときに共通項が全くない可能性は考える必要がない。まったく共通項がなければ同じ会議に出席するはずがないからだ。
筆者の会社はWebシステム自体を外部に発注し、様々なパートナー企業からサポートしていただいているが、そのパートナー企業が本当に面白いと思っていることと、筆者自身の関心が同じ相手とは長続きする。しかし、いくら能力が高くても、関心が異なるパートナー企業とはあまり長い付き合いにならないことが多い。
似たような関心の人だけで集まれるかどうかはかなり偶然が支配することが多く、結果的に何度も同じような失敗を繰り返すことになる。それでも最後まで付き合ってくれる戦力は、やはり関心事が似たような人になる。さほど多くはない同じ関心事の人たちと長期間に渡って仕事ができる状態自体が(儲かるとか儲からないということよりも)幸せなのではないだろうか。
しかし、前述の「高校の時の同級生に親友が多い」という話は、単に過ごした時間の長さや関心事だけに起因しているとは思えない。もっと別の理由がありそうだ。なぜなら、高校の時の友人とはもはや年に1回会うか会わないか程度の時間しか使っていないにもかかわらず、その信頼関係が揺るぎないものであり、かつ劣化していないからだ。で、ここに至ってどうやら時間という物理量には奥行きとか深さ、あるいは密度、さらにベクトルのようなものがあるらしい、という仮説が思い浮かぶことになるのだが、なんだか面倒な話になりそうなので、別途ヒマなときに考えてみることにする。
※1)参考文献
福島真人、1998年3月「差異の工学 : 民族の構築学への素描(<特集>東南アジア大 陸部における民族間関係と「地域」の生成)、東南アジア研究 (1998), 35(4): 898-913
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56654/1/KJ00000132036.pdf
※2)カップヌードルは日清食品の登録商標
- 書名
- 会社をつくれば自由になれる
- 出版社
- インプレス/ミシマ社
- 著者名
- 竹田茂
- 単行本
- 232ページ
- 価格
- 1,600円(+税)
- ISBN
- 4295003026
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