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私たちに必要な「スポーツメディア」

2020年の東京パラリンピック・オリンピック開催を控え、私たちは今までには存在しなかった“スポーツ専門メディア”を必要としている。目的は「健康」、そのために必要な編集軸は「応援という行為」「生涯を通じての働き方」そして「道具論」の3つである。

スポーツの起源をいろいろ調べてみると、どうやら(日本では、だが)実労働時間3時間に満たない縄文時代に暇つぶしでスタートした、というなんとも夢のない話が定説らしい。しかし、“暇つぶし”というのは案外深い概念だったりするのも確かではある。暇つぶしは地球上に人間が存在する“意義”とどこかでリンクするはずである。ともあれ、様々な紆余曲折を経て、スポーツは現在、様々な社会の課題を解決するために役立つものになりつつあるのは間違いないだろう。

従って、少子高齢化に代表される“課題先進国”として全世界から注目を浴びているという日本の現状も鑑みてスポーツメディアの在り方を考える時、まずは一生を通じて健康的であるためのノウハウを提供するのがそのメディアの最も重要な役割になる。

経済問題としてのスポーツ(e.g.オリンピックにおけるメダル獲得数など)は、あくまで健康的な生活実現のために必要なサブテーマのひとつに過ぎない。むしろ、経済の本来の意味、すなわち“経世済民”を実現するためのノウハウにまで巻き戻す必要がある。

WHO憲章では、健康について次のように定義している。「Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.(健康とは、病気でないとか弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にもそして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう(日本WHO協会の訳による)」

スポーツはアスリートのためのみならず、彼らを“応援”する人も含めたすべての人の健康のためにある。つまり実際にスポーツを行う人だけがアスリートではない。ライブ・コンサートは、プレイヤーとオーディエンス(聴衆)による協調行動の結果としての価値創造だ。オーディエンス不在の演奏は単なる練習に過ぎない。同様にスポーツも、応援してくれるファンがいるからスポーツとして成立する。すなわち、応援する“だけ”の人もアスリートなのだ。スポーツは実行する人と応援する人の相互作用と協調行動により創出される価値、すなわち人的関係資本(Social Capital)の増強活動に他ならないのである。

この価値は、具体的には現在と将来の健康的な生活に対する希望になる。端的に言えば“希望を創出するための協調行動”こそがスポーツである。試合後の選手インタビューでの「ファンの皆さんのおかげです」というセリフはお約束になりつつあるが、あれは営業トークではない。実際様々な計測をしてみると、オーディエンスの数とプレイヤーのエネルギー・ポテンシャルは比例する。彼らは熱い応援に対して心の底から感謝している。

一方、プレイヤーとしてのアスリートは自らの肉体や精神力をある特定のスポーツに捧げることで、人間が持つ身体的可能性の上限を提示し、応援してくれる全ての人に希望を創出する役割を担っている。しかし、精神と肉体の限界に挑戦する行為は一種の“加速試験(時間を圧縮して行う試験)”にならざるをえない。結果として彼らの人生において、最高のパフォーマンスを提供できる時期は若い頃の短期間に限られ、一方で現役引退後の人生は絶望的なほど長い。

ここにおいてスポーツアナリシス(スポーツ統計学)の役割は、最高のパフォーマンスを実現するための統計学の駆使にとどまらず、当該スポーツマンの“生涯にわたる価値”をどうデザインしていくかにおいても役に立つものでなければならない。もはやアスリートを使い捨てにしてはならない。これからのスポーツアナリシス、つまり統計学的・科学的アプローチのミッションとして、ここに照準を定めているメディアが存在しないのが問題だ。

ところで、昨今ようやくパラリンピックの社会的意義がクローズアップされるようになってきた。パラリンピックの選手寿命がオリンピックのそれに比べて比較的長いのは“道具”によるサポートがあるからだ。道具自体の進化は、ピーク時の記録更新のみならず選手寿命の延長に寄与する。

しかし、よくよく考えてみよう。棒高跳び(Pole Vault)はなぜオリンピック種目なのか。あれは身長2mに満たないという“ハンディキャップを背負った私たち人間”が何とか5mを越えるべく、棒(ポール)という道具のサポートを得てそれを実現させようとする行為と言えないこともない。つまり、棒高跳びは本来パラリンピックの種目という側面もあるのだ。

すべての人間が多かれ少なかれなんらかの形でハンディキャップを背負っていると考えられることからすれば、パラリンピックとオリンピックには本質的に有意な差が存在しないことがわかる。すべてのスポーツと私たちの人生は、適切な道具(道具という言葉は、本来、修行に必要な用具が“道”に備わっていることを指す仏教用語であることに注目しておきたい)の存在を前提にしているのだ。

道具はハードウエアだけとは限らない。例えばF1というモータースポーツは良くも悪くもテレメトリー・システム(Telemetry System :遠隔測定)の導入でゲームそのものの性質が劇的に変わった。また、前回のサッカー・ワールドカップにおけるドイツ優勝の影の立役者は、SAPのフィジオリティクス(Phisiolytics)関連プログラムだ。情報通信系ソフトウエアが道具として脚光を浴びつつあるのが昨今のスポーツの特徴だろう。

前述のWHOにおいても、1998年に新しい提案がなされた(Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. )。つまり、「健康の定義にspiritualを加えよう」という動きである。spiritual が人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものだという観点からの提案だ(ただし現時点で採択されていない)。

これは、健康的であることに感性を重視する方向が加わったことを示す。機械学習やディープラーニングなども含むソフトウエア技術で“感性( e.g. 「美しい絵画であることが判る」など)”を解き明かしていこうとする動きとも一致する。アナリシスを含めたソフトウエア群・道具群が、スポーツにかかわるすべての人たちの健康に最終的にどのように資するのかを考えることが重要である。

以上、「こういうスポーツメディアを作りたいなぁ」という想いから作った企画書の抜粋である。誰もが知っているであろういくつかのオリンピックのオフィシャル・スポンサー企業に提案してみたのだが、どこからも賛同を得られなかったので、ここに原稿として公開するものである。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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