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毎日出勤するために起業しよう

昨日まではできたことが今日はできなくなる、これが“老いる”ということだ。今日も昨日とあまり変わらずに、つつがなく過ごせることが実に幸せなことなのだと実感するためには、それなりの時間を必要とするのである。定年制度は、その人のある年の誕生日を境に、そのように“つつがなく過ごせた”日々を乱暴に断ち切る制度だ。そして定年起業とは、その制度に柔らかく立ち向かう最も有効な手段である。60歳からの貴重な5年間を無駄に過ごすことになる再雇用制度といった姑息な延命策には、背を向けるべきであろう。

友達を作るとか、勉強するといったことをむろん否定するものではないが、それ以上に重要な小学校の機能は、「どうやら世の中には、毎日同じ時間に同じ場所に行かねばならないというルールがあるらしい」ということを、理屈抜きに、強制的に、そして体感的に植え付けさせるところにある。

この習慣は、大学という名のパラダイスで一度緩む人が多いはずだが、就職してサラリーマンとなることで復活し、以降は基本的には定年まで続く。哺乳類は心臓の鼓動と月の満ち欠けをベースにした単調なリズムを前提にするとうまくいく、ということを身を以って知ることになる。

ただ、これを続けていると「俺はなぜ毎日同じような時間に同じ電車に乗り、同じ場所へ出向いているのだろう」といった具合に、自分の単調な人生に対する哲学的な疑問を感じ始めるだろう。出勤時の駅のプラットホームで「たまには電車以外のものが走ってこないかねぇ」などという訳のわからぬ妄想が出現し始めたら危険信号である。

そこで、休日・祝日とは別に、早朝・時差出勤、直行・直帰、出張、そして人事異動、あるいは引越し、さらに転勤、そして転職などのアクセントを意識的に挟めば、規則正しい生活に対する疑問を短期的にでも忘れることができて気が紛れる。結果として、30年くらいは同じようなことを延々と続けることが可能になる。

同じことを延々と繰り返せるということそれ自体が、とても恵まれていることの証明であり感謝すべきことでもある。昨日まではできたことが今日はできなくなる、駅の階段を登った時に生まれて初めて膝に痛みを感じた、という具合に、昨日までは発生しなかったことが今日出現したりする。これが“老いる”ということだ。変わらないことの本当の有り難さを自覚できるようになるのには、やはりそれなりの時間を必要とする。これは、若者にはわからない感覚だろう。

定年は、何十年も続いてきたこの習慣を粉砕する。体調がおかしくなったり、急に老け込んでしまうほうが普通であろう。そこで起業である。定年起業の効能の一つは、今までと同じように、毎朝同じ時刻に家を出て行くべき場所があるという形で自分にリズムを与えることで健康が維持できる、という点にある。

自分の会社という法人格に自宅を事務所として貸し付けることでコストダウンを図るのも賢明ではあるが、家人にしてみれば、今まで日中には存在しなかった物体が自宅に転がっているのは鬱陶しいに決まっている。それはそれでストレスになっているであろうことを察するべきである。人間関係に限らず、何事も適度に離れていたり間隔が空いているほうが長続きすることになっている。自宅ではない外のどこかに自分の居場所を作ることが、定年起業の第一歩だ。

“居場所”は、仕事とは何かという根源的な問いに答えるときに必ず登場する重要なキーワードだ。仕事とは、互恵的であるほうが上手くいくことを発見した人類が行う行動のすべてである、と言ってもいいだろう。自分の視点からは、他人の役に立っているらしい、ということを確認する行為になるが、それは同時に、その他人から自分がそこに居ることを“承認”されている状態でもある。つまり「あ、俺はここに居ていいんだな」ということを確認できることこそが仕事に他ならない。

その意味において、例えば重いハンディキャップを背負っているため外に出かけることが困難な子供は、その母親に対しては十分に“仕事”をしていると言える。仕事のすべてが経済と直結しているわけではない、むしろその行為のごく一部を経済的行動とみなしても構わない場合もある、という程度に捉えておかないと、介護労働の本当の意味を理解するのは難しいだろう。

私たちの行為としての労働は、意外とカネに直結していないところに多くの時間を割いているのだ。「互恵的利他主義」とはそういう意味である。

日本のGDPは500兆円程度で、ここのところほぼ横ばい状態だが、いわゆる非市場経済がその10%程度(なんと50兆円もある)存在しているはず、とも推定されている。ここでは、いわゆるブラックマーケット以外に、非課税の互恵的な贈与経済、つまり物々交換が相当な割合を占めているはずである。ここをうまくデザインできると日本経済はひょっとしたら面白いことになる、と考えているのだが、話が逸れるので元へ戻す。

定年後に趣味に没頭するのも悪くはないのかもしれないが、趣味の最大の弱点はこの“承認”というプロセスが発生しにくい、または承認に切実さや必然性が希薄だという点にある。例えば、カルチャーセンターに受講生として通うことは、一見そこに居場所があるように見えるが、講師から「あなたに来てもらわないととても困る」と思われることはない。逆に、もしもあなたが講師であれば、来てもらわないと主催者はとても困る、つまりあなたは必要とされていることになる。

ともあれ、切実な承認のやり取りが発生しない行為は長続きしない。“飽きる”のである。旅行に出かけようと山登りしようとすぐに飽きるのは、他人による承認プロセスがないからだろう。そもそも、定年退職後の30年間を余暇だけに使えるのは、経済的に相当恵まれた人か、継続的に遊び続けることができる特異な才能の持ち主であるかのいずれかだろう。

特定クライアントから請負業務を受注したりすると、定期的なミーティングを実施して進捗管理を行うことがあるが、契約(3カ月や1年などの場合が多い)が終了すれば、同じ場所に同じ時刻に出向く必要はなくなる。居場所は消滅してしまうことになる。一定期間存在するであろう複数の居場所の発生と消滅を繰り返すのが仕事だ。あなたの能力とは無関係にそれ自体が不安定なものだと考えておいたほうがいい。

実際には、請負業務のビジネスフェーズが変わるとともに「あ、俺の役割はそろそろ終わりだな」と自分で感じることになる。興味を失った仕事を続けるのも離脱して別の仕事に時間を割くのも、起業していれば自分の裁量で決めることができる。

定年起業の居場所の設計ポイントは「小さな居場所を複数確保せよ」ということに尽きる。月額10~20万円程度の契約を5か所くらいから確保するのが、最も長続きして安定する“経営”になるだろう。

そして、さらなる安定を目指すために必要なのが事務所、すなわち自分の拠点である。この拠点だけは、100%自分自身の裁量で決定することができる。事務所は複数存在しても構わないし、零細企業であっても地方に支社を作ることさえ可能だ。

住んでみたかった街に六畳一間を借りて、月に一度くらい出張と称して出かけなければならない仕事を作る、なんてのも楽しいだろう(そこにクライアントがいる場合に限るが)。たまに家族を呼び寄せたりすれば、「あんた案外スゴい」ということで見直されること請け合いだし、肌が合わなければさっさと撤退すればいいだけである(余談だが、居場所には、当然、居心地なるものがあって、複数の人からよく聞くのは、京都の居心地の悪さと岡山の居心地の良さだ)。

毎月数百万の売り上げが何カ月も続くようなディールが締結されそうになったら、正味の自分の仕事量に応じたコミッションのみを取るようにして、いたずらに売り上げを増やさず、外注費として消えていくであろう経費も含めて、契約の先頭に立ってくれる別の会社に元締めになってもらった方が安全だ。定年起業家に巨額な売上げは必要ない。役割に相応しい正味の利益が確保できるのであれば、早めに帰宅して、晩酌でもやりながら気絶するようにして爆睡してしまうのが健康的だ。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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