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べき論先行型論理的プロジェクトは失敗する

「好き・嫌い」で集まったグループはとてつもなく強い。ジャズのメタファーで言えば「こういう世界観作りたいんだけど」というオファーに対して「あ、俺もそれ好きかも」みたいなのがうまくいく。多少スキルが低いメンバーでもその“好き”に共感してくれるのであれば、そのプロジェクトが成功するかどうかはともかく、楽しいことは保証できる。

例えば、ある人がある種の法則のようなものを“発見”したとしよう。その後その人は、その法則が正しいことを強化する方向でのみ情報を集めるべく奔走することになる。これを確証バイアス(confirmation bias)という。自分の信念を過大評価することになるのは、この確証バイアスが起動し続けるからだ。

認知バイアスには、この確証バイアス以外に様々なものが存在する。それらは修正すべき態度や現象として取り上げられることが多いが、なんのバイアスも存在しない人間など実在しない。世の中がジレンマで構成されているのと同様、人間はバイアスという部品で組み上げられていると言っても過言ではない。

バイアスまみれな状態をどの程度客観的に観測できるかには個人差がある。しかし、いずれにしても自分を信じるということは、自分が所有しているバイアスと心中することを意味する。大げさに言えば宿命みたいなものであり、「個性」という言葉を割り当てられることも多い。

ついでに言えば、中立性だの公平性だのというものが“概念として”存在するのは一向に構わないが、現実の世界はジレンマとバイアスで構成されているので、これらは実在しないと考えたほうが無難だ。

例えば、ひとつのケーキを2人の人間が“公平に”分ける方法は、2人のうちいずれかが「どちらを選択されてもいいように」2つに分けた後、切り分ける作業を行わなかった人が優先的に好きな方を選ぶ、という方法しか存在しない。公平性は、利害関係者による“納得(文句をつける合理的な理由が存在しない)”という形でしか表現できない、ということなのだ。

高学歴な人には、「自分は頭がいい(はず)」という確証バイアスが働く。この確証バイアスは、世間がその勘違いを助長する方向でサポートしてくれるのでさらに堅牢なものになりがちだ。

“頭がいい”という言葉は「(数字を含む)言語を論理的に展開する速度が速い、記憶力が優れていて知識が豊富、理解力・洞察力に優れている」といったあたりの総合的な能力、という意味だけで利用されているとは限らず、偏在している特定の能力に対しても同じ“頭がいい”という言葉を使うことが容認されている。つまり、とても意味の幅が広い、実に曖昧な言葉なのである。

ただし、それでさらに伸びる人もいる一方で、勘違いしたまま不幸な一生を終える人もいるわけで、それ自体をどうのこうのと議論すること自体にあまり意味はないのかもれない。

筆者には「零細企業の経営はジャズ・ミュージシャンの働き方と同じである」という確信、すなわち強い確証バイアスが働いている。これは自分が“発見した法則だ”とずっと信じていたのだが、何のことはない、がすでに2年前に指摘(No.12 42/54的な目指すべき組織形態とは?)していたのであった。どうやら筆者はこのコラム自体に影響を受けていた可能性が高い。これを読んで「そうかも」と思って、経営スタイルをその方向に変えていくことで、確証バイアスを強くしていっただけなのかもしれず、まあ筆者の信念(確証)なんぞ、その程度のものである。

この法則は一言で言えば、プロジェクトに応じて様々な人とチームを作る働き方は楽しい、ということなのだが、いくつものプロジェクトを立ち上げたり潰してきた経験から断言できるのは「論理やカネでつながったプロジェクトは弱い」ということに尽きる。前述の記事の例でいうと、凄腕を見込まれカネを積まれて参加したドラマーが必ずしもいい演奏をするとは限らない、ということだ。「正しい・間違っている」あるいは「良い・悪い」が先行している“べき論先行型論理的“プロジェクトは失敗する確率が高い。

それに比べると「好き・嫌い」だけで集まったグループはとてつもなく強い。ジャズのメタファーで言えば「(さしたる理由はないが)こういう世界観作りたいんだけど」というオファーに対して「あ、俺もそれ好きかも」みたいなのがうまくいく。多少スキルが低いメンバーでもその“好き”に共感してくれるのであれば、そのプロジェクトが成功するかどうかはともかく、楽しいことは保証できる。

好きと論理は水と油と言ってもいいくらい相性が悪い。論理の積み重ねの結果が何らかの好きに辿りついた、というプロジェクトは“本当の好き”ではないことが多く、筋が悪いといえよう。早々に解散した方が無難である。

あなたが会社を作ったとするとおそらく複数のプロジェクトを回すことになるはずだが、それぞれにおいてメンバーを集める時には「こう言う仕事があるんだけど、どう? 好き?」と聞くこと、そして相手が言うところの「好き」に経済的な裏事情が希薄であることを(何らかの手段で)確認することが重要だ。

実は、筆者のここ数年の会社経営は、“凄腕だけど特にそれが好きというわけではない高学歴スタッフ”にこだわりすぎてきたきらいがある、と反省しているのである。したがって、原点回帰というわけでもないのだが、「私、バカですけどそれが好きです」と言ってくれるスタッフと一緒にプロジェクトを作り直したいと思う今日この頃だったりする。

特に筆者のようなメディアを作る仕事で注意すべきは、取材や執筆は好きだがメディアには興味がない、という業界関係者が案外多いということだろう。新聞記者として事件を追っかけるのは大好きだが、新聞というメディアの未来には全く関心がない、というのは特に不思議な現象ではないようだ(筆者にとってはとても不可解な現象なのだが)。

プロジェクトは、メンバーやミッションを定義してからスタートしても面白くないし、なんとなく貧乏くさい。なし崩し的なギグ(No.65 防衛的起業とギグ・エコノミー)  からユルユルと始めているうちに、形が見え始めてきて、俄然面白くなってくる瞬間がある。その時が本当のキックオフである。

実は今、ある大好きな大学教授のための“画期的な”書籍の制作・編集を数人の仲間がサポートする非公式なプロジェクトに参加している。全くのボランティアでダラダラと1年近くギグを重ねていたのだが、先日ようやく形が見え始めてきた。プロジェクトの構造が突然自分の頭の中に瞬時に構築される。この瞬間のために仕事していると言ってもいいくらいの快感、醍醐味を味わうことができる。

ただし、それがそのプロジェクトの経済的な成功を約束しているわけではない。「好き」でやってることの最大のメリットは、失敗しても後悔しない、という点にあるのだ。その意味において、先日販売を開始した「橋本治の動画講義」などは、筆者がやりがちなプロジェクトの典型的なものだろう。こういうものの面白さはなかなか解りにくいだろうなあ、ということは解っているのだが、やらずにはいられないのだ(筆者が単なる橋本治ファンだ、というだけかもしれないが)。

このプロジェクトで一番嬉しかったのは、さしたる橋本ファンというわけでもなく、初めて彼に正対することになった(撮影を担当した)カメラマンが「や。これはすごい、面白い!」と興奮してくれたことだ。彼が持ち込んだ3台のカメラのうち、手持ちの1台が橋本氏にかなり激しく追っているのだが、これがこの作品を単なる動画講義からドキュメンタリーにまで昇華してくれているように思う。そしてそのカメラワーク自体に彼が感じた興奮がきちんと記録されているのである。