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マナーはレシピの上位概念である

筆者は「美食」あるいは「グルメ」という言葉で括られる食事とそうでない食事の区別がよく判らない。味覚があまり発達していない、食えるだけで旨いと感じてしまうということもあるのだろうが、カッコつけた言い方をすると、全ての食材に対する礼儀のようなものを持ち合わせているからではないか、と思わないでもない。全ての食材とは、基本的に「人間以外の動植物」である。この動植物に対する礼儀(=美味しくいただき、残さない)こそがレシピに他ならず、これをコアにしながら、様々な人間や環境が加わっていくことで、樹木の年輪のようにマナーの輪を増殖させていく必要がある。この時に必要なのは倫理ではなく、全ての食材の価格を思い切り上げてしまうことだろう。

言うまでもなく味覚(みかく)は五感のひとつで、食事を通じて感じる甘味、酸味、塩味、苦味、うま味、云々、と説明されることが多い。むろんこれらの舌(味蕾)で味わう感覚もそれなりに重要ではあるが、普段私たちが“美味しい”と感じるときに、この味蕾が果たす役割は思いのほか小さい。

例えば(下品な飲み方だが)紙パックに入ったアイスコーヒーに直接口をつけて飲むと「なんだか冷たくて苦いものをノドに入れているだけ」としか感じることができない。それがコーヒーである(らしい)ことを視覚で確認していないからだ。視覚が味覚に大きなインパクトを与えるのは周知の通りである。

そのアイスコーヒーをグラスか紙コップにに注ぐ、あるいはプラスチックのストローを経由させる、などによっても味は変わる。ここでは触覚(舌触り)が敏感に反応する。特に人間のカラダは、唇と指先に知覚神経が集中している(相当鈍い人間でも指先で1/100mmの違いをきちんと認識できる)。また食べ物によっては、「歯ごたえ」という触覚が味覚に大きな影響を与える。例えば、糖度が同じで硬度(硬さ)が異なる2種類の食品があった場合、感触の優しさを甘さと錯覚するため、柔らかいほうを“より甘い”と感じてしまうはずである。

グラスに入れたアイスコーヒーも、室内か室外かで味は変わる。風がそよいでいる外で飲むほうがはるかに美味しい(今年のような異常な猛暑においては微妙だが)。さらに、当該の食べ物の名称を聞いただけで、過去の味覚の記憶(=ミラーニュロン)が起動する。これらを総合した感覚が“美味しい”という言葉につながる。また、どのように「美味しい!」と発話するか、身振り手振り(non verbal communication)はどうなっているかで、その美味しさの他人への伝わり方は変化する。

このように味覚は、五感の中でも最も総合的な感覚といっていい。この総合的な感覚に大きな影響を与える最後のスパイスが“マナー”だ。私たちの日常の食事は健康維持(医食同源)のためだが、実際には、より深いコミュニケーションを実現させるうってつけの手段として多用している。食事以上に相手との親睦を深め、共感するために効果的かつ手軽な手段はさほど多くない。お互いが気持ち良く食事するためにマナーが必要なのは当然である。

マナーは典型的な協調行動だ。外食時においては顧客だけがマナーを求められるわけではないし、店主には、いかなる場合でも顧客が神様であるかのように振る舞う義務があるわけでもない。この協調行動への参加者は、厨房にいるシェフ、フロアでサポートしてくれるスタッフ、顧客、そして同じ店内にいる他の顧客だけではない。“食材”もまた、このマナー成就のための協調行動に加わることになる(e.g.牛肉を煮込む料理を作る時は90分程度は煮込んであげるのが牛肉に対する礼儀である。つまりレシピとは食材に対するマナーでもある)。

一方、自宅の台所で料理中の妻に対して夫が「手伝おうか?」と声をかけるのは、一見思いやりに溢れた行為のように見えるが、実はマナー違反だ。「手伝う」とは「それは俺の主たる仕事ではない。俺には料理をする義務はない」という宣言に他ならないからだ。女性が職場に進出しているのと同様に、男性も家事に進出すべき時代になった以上、この場合は、何も言わずに料理に参加するのが正しい。

あるいは、最近急増中の「ファミリーレストランを居酒屋のように使う老人のグループ」も少々厄介な存在だ。彼らはファミリーレストランの中を走り回る子供を注意する。一見、子供がマナー違反を犯しているように見えるが、実際は、ファミレスを居酒屋のように使おうとする老人グループの入店という行為自体がマナー違反であろう。退去すべきは子供ではなく老人グループなのだ。

ファミレスは、不機嫌になれば泣き叫び、その場にじっとしていることができない子供を許容するためのレストランである。従って、ファミレスの店長が指導すべき対象は子供ではなく老人グループだ。店長には、居酒屋より安上がりだという理由でファミレスで酒を飲む貧乏くさい老人グループをたしなめ、反論されても毅然として対応する矜持(プライド)と確固たるポリシーが求められる。

居酒屋でノートバソコンを広げる馬鹿も多い。そこまで忙しいはずのヤツがなぜわざわざ居酒屋にくるのか、と問いたい。仮にそれが待ち合わせのための時間つぶしだったとしても、周りでくつろいでいる客に対して失礼であろう。それが(精神的な)解放区であること自体を楽しむための居酒屋に、わざわざオフィシャルで異質な仕事空間を持ち込むことで「場」を濁ったものにしていることに気がついていない。

この手の無頓着な嫌がらせほどタチの悪いものはない。最低でも個室で遠慮しながらするべき行為であって、店員が間違えて水や酒をそのノートパソコンにかけてしまったとしても、店員が謝罪する必要はない。居酒屋でノートパソコンを広げること自体がマナー違反だからだ。

このように、食事を中心としたマナーは一種の社会学と言える。ただ、残念ながら、古典的な倫理観や儒教的価値観、あるいは神道を基本とする礼儀を重んじる心がけなどをいくら力説しても、マナーのレベルを上げるのは難しい。再教育が必要な連中は若手ではなく、主に団塊の世代前後だからだ(筆者の世代も含まれると思う)。

彼らに自分の価値観を否定させ、新しいコード(規範)を植え付けるのは無理である。考えなくても成長できた、という特殊な成功体験を普遍的なノウハウと勘違いしている世代なので、さっさと社会から退出していただく以外に方法はない。

マナーに溢れた食卓のための第一歩は、なんだろうか? それは、食材の単価をグンと上げてしまうことだ。

そうすれば、たいていの食材を大切に扱うようになる。無料セミナーへの来場者が真剣味に欠けるのに対して、有料セミナーに参加する人は、そのお金に匹敵する価値をなんとか持ち帰ろうとする態度につながるので真剣味が違ってくる。同様に、高額な食材ほどじっくりと大切に味わい、かつ(もったいないので)残してしまうようなこともしないはずだ。「大盛り無料」など、米に対する冒涜であり、犯罪に近い。

人間は、タダで手に入れることができるものを大切に扱うほど高級な生き物ではない。そして、自分では食べ切れるはずのない大量の食材を確保(貯蔵)しようとするのも人間だけである。環境省の「推計」によれば、平成26年度における食品廃棄物は約2,775万トン、そして本来食べられるにもかかわらず廃棄されている食品は年間約621万トンになるという(この数字は近年さらに上昇しているはずである)。

この点において人間は、全ての動植物の中で最低のマナーしか持ち合わせない。環境問題が地球に対するマナーだとすれば、すべての人間にはこの問題を議論する資格すらない。食材の価値を再認識するためには、価格を引き上げてしまうのがもっとも単純で効果的だ(同時に、家計に占める異様に高い住宅関連支出を下げる施策を実施することでバランスが取れるはずである)。

 

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026