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田中善一郎さんのこと

人生はほぼ全てが偶然の出会いを元に育まれていくが、「もしも彼(彼女)に会えなかったら」を想像した時に、ゾッとする人が必ず何人かいるはずである。それくらい人生に大きなインパクトを与える出会いがある。筆者にとっての田中善一郎氏がまさにそれである。現在、私が小さな会社で禄を食むことができている理由のすべては、過去に田中氏と一緒に過ごした時間の中だけにある。

田中善一郎氏は、1968年に富士通に情報通信システム系エンジニアとして就職し、74年9月に日経マグロウヒル社(現在の日経BP社)に転職、創刊されてまだ3年しか経過していないのに、いち早く他の追随を許さない技術ジャーナリズムを確立していた日経エレクトロニクス編集部に配属され、エンジニアとしての経験や独自の深い洞察に基づいた鋭い記事を連発する敏腕技術ジャーナリストとして活躍した(注:日経エレクトロニクスは、西村吉雄氏が編集長だった1979年から1990年が最も輝いていた時代だった)。

日経ビジネス(69年創刊)が現在に至るまで同社の収益の柱であることは確かだが、いわゆる“日経BPらしさ”の基盤が日経エレクトロニクスだったことに異論のある関係者はいないはずだ。彼のメディアとの関わりはここからスタートし、その後いくつかの同社のIT系雑誌の編集長を務め上げ、局長職に就任する。

欧州原子核研究機構(CERN)がWorld Wide Webを開放した1993年に、Marc AndreessenがNCSA Mosaic(ブラウザ)を発表、これが雑誌ビジネスに大きなインパクトを与える可能性があることをいちはやく察知した彼は、会社にインターネットの専門部隊を作ることを強く要請し、彼の働き掛けでまずは「インターネット委員会」が設置された(95年1月26日)。

経済記者としての鋭いカンで事の重大性に気が付いた鈴木隆社長(当時)の後押しもあり、これが日経BP初のネットメディア「BizTech」の創刊(96年6月3日)に結実する(この作業のためにかき集められた何人かの一人が筆者である)。

この後、日経ビジネスオンラインなどの雑誌連動型ネットメディアが矢継ぎ早に登場し、出版社が実施するインターネット事業としては、当時かなり存在感があるものになった。これらすべての日経BPのネットメディアには、田中氏が精神的な支柱としてインストールされていた。

97年4月1日は、米国UserLand Softwareが後のブログブームの嚆矢となるweblogs(Scripting News)を開始するエポックメイキングな日である。期せずして同年同月、田中氏は日経BP社常務に昇格し「ネットメディアが主体になり、“ついでに”雑誌も発行している日経BP社」を予見、その実現のための奔走を加速させた。

日本経済新聞グループ全体を見渡しても、彼以上にネットメディアに詳しい人材がいないということもあり、大手町にある日経本社からも頻繁にヒントの提供を求められ(事実上のコンサルティング業務だったと思われる)、これが最終的には日経電子版の大成功につながる。

日経BPを後にした彼は、いくつかの友人の会社の仕事を手伝ったりしていたが、後に多くの若いネットビジネス関係者に大きな影響を与えることになるブログ「メディアパブ」を2004年5月18日にキックオフした。「いやー、単なるボケ防止だよ」と自嘲気味に語っていたが、クソ真面目に面白がってしまう癖のある彼の手にかかると、たとえ個人ブログであっても一流のメディアになる。2007年頃の筆者の活動にも言及してくれている(米大手出版社のコンデナストに関連して、気になる2人にエールを)。

この後、いくつかのネットベンチャーの役員就任を要請されることになるのだが、その遠因はすべてこの「メディアパブ」での活動にあると考えていいだろう。特に、これも元日経BPの社員だった山岸(広太郎)氏に請われてのグリー株式会社監査役就任は、ネット業界に本格的に復帰した印象を与えた(「グリーって大丈夫なの?」と聞かれて)。

彼の、特に日経BPを退職した後の活動は、実は定年退職者の社会とのかかわり方に関して、一般論としても模範的なものだったように思う。他人からとやかく指示されず、自分のやりたいこと、好きなことに没頭しているだけなのだが、なぜかそれが仕事として世間から評価されてしまう。金銭よりは裁量権が重要なので、それを手放すことなく、自分の体と相談しながら無理せず楽しむ(遊ぶように仕事をする)というライフスタイルをキープしていた。

前述のメディアパブについても、筆者としては弊社で預かってスケールの大きなメディアにしたい、と再三にわたって申し出ていたのだが、「好き勝手にやりたい」という彼の想いを崩すことはできなかった。そして、それは正解だったのだ。

ただ、これだけの業績を残した人であるにもかかわらず、彼には自著(単著)がなかった。自分をPRすることにまったく関心がないのである。しかし、筆者としては、どうしても彼の本を作りたい、彼には書き残す責務があると思ったのだ。そこで、昨年くらいから、億劫がる彼を引っ張り出して、どういうものがいいかという打ち合わせを始めた矢先だった。先に足早に紹介したように、彼の業務実績は、実は日本のインターネット・メディアの歴史そのものだからだ。

大先輩ではあるが、彼ほど「面倒をみてあげたくなる」人も珍しい。元々垂れ気味の小さくて細い眼が微笑んだ瞬間に、本当にいい笑顔になる。あれにコロッと参ってしまう人は多かったのではないだろうか。歴代の日経BP役員の中で、最も人望に溢れた人が田中氏であることに異論のある人はいないだろう。(筆者も含め)彼の部下になった人は全員が幸せだった。

現在、私が小さな会社で禄を食むことができている理由のすべては、田中氏と一緒に過ごした時間の中だけにある。拙著「会社を作れば自由になれる」の巻末の謝辞で何人かの名前を連ねさせていただいたが、その中でも田中氏は格別な存在だった。

不整脈の持病があったので、ちょっと急いだほうがいいかな、という予感があったことは否定しない。麻布十番で最もリーズナブルで美味しい居酒屋である「山忠」で、田邊(彼もまた、田中氏の薫陶を受けた人間である)を交えて3人で打ち合わせを兼ねた食事をした後、「じゃ、次回はもう少し具体的な編集会議をやりましょう」「やろうやろう。じゃ、また」と言って別れたのがつい先日である。これが最後の会話になるとは想像もしなかった。

田中善一郎氏、昭和20年4月16日生、享年73歳。合掌。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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