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文化資本は実は技術論である

『人は見た目が9割』がベストセラーになってしまうくらい、人は視覚的認知バイアスの虜(とりこ)になってしまいがちな生き物である。良し悪しは別にして、その特徴を活かしつつ生き延びてきたという側面も否定できない。ただし、これから徐々に見た目の価値は相対的に低下していくはずである。(8Kのテレビなどを見ていると)視覚はすでに開発され尽くした感が否めないが、それに比較すると嗅覚・聴覚・触覚は、まだまだ手付かずの状態に近いと思われるからだ。

古典落語に「しわい屋(しわいや)」という小噺(マクラで利用されることが多いショートショート)がある。

筋金入りのケチが鰻屋(うなぎや)の隣りに引っ越してきて、隣りで焼く鰻の“匂い”をおかずにご飯を食べていた。それを嗅ぎつけたこれまたケチな鰻屋が、今までの鰻の匂いの“嗅ぎ賃”を払え、という。そこでその筋金入りは、財布から小銭を取り出し、チャリンチャリンと音を立て、「匂いの“嗅ぎ賃”は“音”で払ったぞ」と切り返した、というものだ。

ブルデュー(Pierre Bourdieu)は、文化資本を客体(絵画など)・制度(学歴など)・身体(習慣や言語)の3種類に整理したが、ここで彼が指摘した客体(object)は視覚的価値を伴うものばかりである。ところが先の小噺は、視覚的価値が伴わないもの(ここでは“匂い”と“音”)にも、十分客体としての価値があることを示唆している。

実際、私たちは香水(匂い)に金を払い、音楽(音)に金を払っている。食事にも当然お金を払うわけだが、広義の“美味しさ”の大半は(味覚や食感ではなく)匂いが占めている(狭義の美味しさのことを味覚と呼ぶ)ので、筋金入りのケチ以上にケチと推察される鰻屋の主張には、意外なことに論理的な妥当性がある。

客体から視覚的価値を引き算した時に残る価値」 を(A)とする。これを科学的に吟味するクセをつけておくと、文化資本は案外わかりやすい。例えば、和室をもっとも和室らしく“見せるもの”は畳(たたみ)だと思われるが、私たちは畳そのものの見た目や感触以上にイグサの香りに畳らしさを感じることも多い。畳表がすり減ってきたことよりは、イグサの香りが減衰してきたことが買い換えるきっかけになったりもする。

従って、イグサの香りが長期間持続する技術や運用体制が開発できれば、価格を吊り上げられる可能性が高い。つまり、文化資本論のコア成分は実は技術資本であり、これがエンジニア(発明が主たる業務)、あるいはサイエンティスト(発見が主たる業務)としての職人論につながる。職人とは、顧客ではなく素材を観察し続ける人のこと、と考えると符合が一致する(注1)。

(A)にはいくつかの特徴がある。まず、全般的に仕入れコストが比較的低い。下手をするとなんの加工もしない天然素材がベストエフォート(best effort)だったりする(所詮、すべてはヒトのやることに過ぎないので、自然資本と相性がいいに決まっている)。さらに、機能や利便性に対する対価というよりは、情緒的な価値(e.g. 懐かしさ、精神的な安らぎ、躍動感など)であることが多い(注2)。

このあたりをブランド論と混同する人が多いが、ブランドエクイティは歴史的な軌跡および長さに対する保証料のようなものなのと、この保証料をサービスベンダーが自主的に決定できないという致命的な弱点がある。(A)が必要としているのは、まずは大脳生理学的および心理学的解析であって、マーケティング的な発想は後から加える、というレシピ(手順)を遵守すれば、この辺りを勘違いせずに済む。

ただし現実には、(A)は最終的に視覚的価値を添えないと課金しにくい。香水にはその価格にふさわしい瓶、あるいはパッケージ、そしてそれがギフト(贈与)であればラッピングという価値を追加することで、その価値を視覚的に“演出”する必要がある。

これは、イグサの香りを販売するために畳というパッケージを仕方なく用意したのだ、という逆転の発想があってもいい、ということでもある。これはイグサという原料と実際のサービスを一対一対応させなければならないとは限らない、ということにも通じる。和室の未来を論じる写真集にイグサの匂いをつけたらもっと売れるかも、と考えてみるのも面白い(注3)。

ともあれ、嗅覚と聴覚にはまだまだ開発されていない価値が眠っている。これに触覚を加えた3つの情緒的価値こそが、次世代の日本を救う“文化資本”になるだろう。

 

注1)
この観察力の深さを“修道僧のように”と形容するメディアが多いが、彼らは修道僧のように念仏を唱えているわけではない。単に素材を面白がっているだけだろう。

注2)
情緒的価値は論理的価値に比べ劣る、と考える人が多いようだが、これはそもそも対立軸ではない。論理的価値は情緒的価値(感)からしか創出されない。例えば、「こういうプログラムを作りたいなあ」という“想い(=情緒的価値)”からしかアルゴリズムは生成されない。出来上がったプログラムは極めて論理的に振る舞うが、このプログラムが起動した理由はプログラマーの情緒の中にしか存在しない。一方、プログラムとそこから生成されたデータ同士がさらに掛け算し合うようなディープラーニングを持ってしても、身体性がゼロというハンディキャップがあるので、ここから情緒や常識のようなものが自動的に創出されることはない。

注3)
1980年代、まだ雑誌が元気だった頃(=唸るほど広告ページが掲載されていた頃)に、某香料メーカーが実際にその香料を振りかけた広告ページを掲載したことがある。そのページを開かないとその匂いがしない、ということと、印刷・造本プロセスに香料を振りかける工程が差し込まれることで雑誌の進行管理体制に大きな影響を与えてしまったことから、この手法はあまり流行しなかった。本当の理由は、「そこまで手間暇とコストをかけても、売れ行きとの相関関係・因果関係が全く測定できなかった」ということだと思うが。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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