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あまりたくさん売ろうとはしないための「教養経営学」

「教養経営学」なるものがあるとしたら、それは一体どのようなものかを考えてみた。流石にこのテーマは「自分に書く資格があるのか」としばらく自問自答したが、資格を云々する資格自体が自分にはない。すなわち、悩む資格があるのかさえもわからない、と思ったので、とりあえず「これを本当に仕事にするときは別の人が主役」と想定することにして勝手に安心して書くことにした。

あえて「教養というもの」を定義せず、私たち日本人が生活の中で日常的に「教養」なる言葉を利用するシーンを思い浮かべてみると、教養的態度・行動もしくは豊富な知識量のいずれかを指すことが多い。ただし後者は、教養との関係が思いのほか希薄であることに皆が気が付き始めていて、決定打になったのは3.11(東日本大震災)において「知識が豊富なはずの人たちが狼狽する様子」が、メディア(特に地上波)を通じて全国津々浦々まで伝わったことだろう。

ある程度の知識量が教養の必要条件であることを積極的に否定する必要はないが、それが十分条件でないことは明らかだ。従って、教養経営とは教養的態度・行動による経営、と定義できるだろう。

ESG(環境・社会・ガバナンス)経営がそれを実現しようとしているではないか、という向きもあるだろうが、ESG経営は2006年に当時の国連・アナン事務総長が発表した「責任投資原則(PRI: Principles for Responsible Investment)」に端を発するキャンペーンに過ぎない。これに素直に従属する態度が教養的と考える経営者は、流石にいないだろう。

教養的経営の真髄は、自分で考え、自分の魂の中から湧き出るものだけを信頼するところにある。他人の言うことに共感する(それは自分自身の中に共感するだけの材料としての教養が整っている、という前提付きではあるが)ことはあっても、指図されて動いているようでは教養的とは言えない。

42/54が裁量権を確保すること(=資本と経営を分離させない自分の会社を作ること)の重要性を繰り返し主張しているのはここに理由がある。

特にESG経営における環境(E)に対する態度には「本当の教養」が滲み出る。例えば「CO2は削減するべき」というような一見真っ当な理屈に対しては、違和感を感じながら積極的に判断を保留する態度こそが教養的である。

環境問題は典型的な「変数の数自体が爆発する課題」なので、良識(phronesis)ある大人であれば「よくわからない」と答えるだろう。「太陽光パネルこそが地球を救う」というようなある種の論理の積み上げによるわかりやすい主張は、似たような別の理屈(理論)で簡単に破壊することができる。これを知っていることこそが教養なのだ。

そもそも科学的知見をベースにした技術による論理は、仮説検証を想定よりも狭い範囲に限定しないと成立しないことが多く、その範囲を超えた場合は無効、というよりもむしろ危険でさえある。このような、まことしやかな理屈の怖さを自分自身の寿命の長さを超えて予知できる経験の中にこそ教養がある。

言語化・数値化しにくい能力であることも確かだが、唯一教養を読み解く可能性がある学問分野があるとすれば、自然科学系では統計熱力学、社会科学系では文化経済学か宗教社会学のはずなので、教養経営学はこれらを統合した実践的な学問になるはずである。

教養を駆動するものは知性である。ただし、その知性のコアになるものは想像以上に身体的なものであり、知識量との相関関係はむしろ薄い。極論すれば、知性とは「身体知」のこと、と言い切ってしまっても良い。勉学に励んだだけの東大教授よりは、笑顔が素敵なアスリートに知性を感じるはずである。

身体知は、周辺環境との相互作用を通じて徐々に育成されるが、その成長曲線は少しづつ緩やかになり、20歳前後でピークアウトする。したがって、教養は幼少期から20歳くらいまでの間でしか育てることはできない。

筆者も含めたボンクラ中年オヤジにも、本来それなりの教養があるはずだが、それを眠ったままにさせ、かつ目を曇らせる大きな要因が市場拡大主義、具体的には株式市場だ。自発的に指数関数的な急成長や急降下を繰り返すこの資本(=カネ)は、投機的なアクション(=短期間での回収)と相性が良いのである。

ここを一旦取り除いた上で、改めて自分自身の中にあったはずの教養をどの方向へ差し向けるかを検討するべき時代に突入したのではないか、というのが教養経営を標榜する所以である。

企業は、どうしても上場やバイアウトそれ自体がニュースになるが、むしろ本当に注目すべきは、当該企業の経営者だった人が事業売却後に実行しようと考えている、あるいは実践している生業(なりわい)であろう。その意味においては、案外、若い人が教養経営をやっていたりする。ある程度カネがないとその方向にアタマを向けるのは難しい、ということなのだ。

教養と相性の良い株式市場(?)なるものを作ることは可能か、ということも課題としては面白いかもしれない(最終的には家族財団の市場化ではないかと想定しているのだが、そこに至る論考はとりあえずここでは省略する)。

ところで、経営とは何だろうか。簡単に言えば、局所的に偏在する小さなまとまり(例えば、法人あるいは家族)の経済および健全なキャッシュフロー、すなわち“カネ”のことである。これは従来、教養と相性が悪いものとされていた。カネに言及しないことが教養的という世論はいまだに健在だ。

ただし、経済=経世済民、であることからすれば、カネは教養的であるための道具、潤滑油のはずである。つまり「ある程度必要」なものだ。ただし「どの程度必要」なのかが、よく分からないのである。

これは佐倉統氏(東京大学教授)がその著書『「便利」は人を不幸にする 』(新潮選書、2013)で問題提起していた「人類にはどの程度の便利が必要なのか」と相通じるところがある。とはいえ、この著書でその結論が展開されているわけではないのと同様に、仮に全ての企業の経営が教養的と思えるときに、経済全体が本当に「健全」なのかを問われると、正直なところよく分からない。「不健全に急成長する企業」にも必要悪として君臨していただいた方が、系全体としての多様性が担保できるような気もするのである。

そう考える理由の一つとして、なぜ「教養主義経営」ではなく「教養経営」なのかを説明しておく必要もあるだろう。

主義(しゅぎ)は、人や団体が主張や行動の指針にする原則(principle)のことを指す。多くの場合、この主張は「一定の、ブレることのない価値観」であり、そこから外れることは許されず、その主張(-ism)と心中することを強要する。ただし、民主主義(democracy)が領土(国土)の拡大と相性の良い制度であるように、全ての主義には必ず弱点があることは歴史が証明している。

ここで重要な「教養的態度」とは、「まあ、そういう考え方もあるんでしょうね」と許容することだろう。どのような教義や主張であれ、それら全てをすり合わせ、熟考し、どこかで「折り合いをつける」ことが教養的なのだ。

これは、第三者からは極めて保守的な態度に見えるが、本来の保守が革新的な要素も内包しているのは、絶好調だった頃の自民党を振り返ってみればわかることだ。逆に、今の安倍政権の動きが教養的に見えないのは、派閥の枠を超えて「一丸となって」動いていることにある。はっきりした主義主張でまとまった団体は、理屈抜きに気持ち悪い。これは、いつぞやの民主党政権が数年間続いた時代と実はよく似ていて、あの頃の筆者の会社経営が甚だ心もとないものだったのは、民主党政権の「ism」に理由がある、と今でも実感している。

ともあれ、教養的であることとは、多様性の重視と様々な主義主張の許容と吟味にある。したがって教養主義は厳密には自家撞着した言葉になってしまうので、目指すべきは教養経営になるのである。

最終的に教養的態度とは、自分自身の五感で感じ取ることができる範囲内での森羅万象に対するある種の「優しさ」になるだろう。優しさとは、モノや人などの生命の持続性、すなわち繰り返し利用可能で劣化が少ない財やサービスの創出と利用にある。従って、見える範囲だけをサポートできる程度のお金があれば良く、見えない遠くの出来事にまで関与しようとするのは国やそっちの当事者などに任せておけば良いのであって、個々の民間企業は足元だけに優しさを展開することを心がけていけば、それなりに儲かるはずである。

結果として見えてくる経営の形は、

1)あまりたくさんの量を作ろうとはしない。従って流通量は少ない。

2)個々のサービスの単価は比較的高額である。

3)ただし、その金額に見合う品質である。

4)その品質を評価する顧客は(従来の)ペルソナを想定した抽象度の高いものではなく、むしろ顔が見えている協業パートナー的な性質を持っている。

5)これが本来の意味での定番(standards)であって、それは人それぞれになる。メディアが取り上げる“定番”は「顧客の思考停止欲求を満たすロングセラー」に過ぎない。

6)定番は生産者と受容者のライフサイクルの中だけで穏やかな成長と衰退をワンサイクルだけ経験した後にその世代と一緒に消滅する。

7)道具自体の「進化(のレガシー)」を根拠に、似たような別のサイクルが別の場所で立ち上がることが現実的な事業継承(承継)になる。つまり教養経営のプラットフォームになるのは(広義の)道具(あるいは体制)である、と言える。

以上のような特性を兼ね備えているのが教養経営なのではないだろうか。

具体例を示した方が説得力がある、と考えていたら、たまたま筆者の仕事仲間の甲斐かおりさんがそのような経営を実践している会社を具体的に紹介する書籍『ほどよい量をつくる』を上梓されたのでぜひご一読いただきたい(ただし彼女が、筆者がここで主張している「教養経営」に賛同しているのかどうかは確認していない)。

 

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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