映像の主役は映像ではなく音である
コンテンツ(内容物)はコンテナ(それを運ぶもの)とパッケージで語られることが多いが、私たちはコンテナそれ自体をコンテンツと見なしがちだ。スーパーで牛乳を買うときに、中身(コンテンツ)よりはパッケージ(コンテナ)を気にしたりするのも同様である(ただし、パッケージはギフト・コミュニケーションにおいては極めて重要なコンテンツとして振る舞う)。
同様に、映像はコンテンツのように振舞っているが実は音という“本当の”コンテンツを運ぶためのコンテナに過ぎない。音のない映像は最終的には誰も注目しなくなるが、音のインパクトが画面に視線を移すきっかけになるのは極めて日常的な“視聴”態度だろう。つまり映像の主役は音なのである(注1)。
また、視覚は視野に入るものを統合しているように誤解しがちだが、実際に行なっていることは際限のない分割(区別)だ。ところが音は、全てを統合する。自分を中心に据えて環境(情報)が統合できるメディアは音だけである(この豊かさをより切実なものにするのが5Gなのだ、という話は通信業界関係者からは聞こえてこない)。
田舎に電話したときのおばあちゃんの声、同時に背後から聞こえてくる柱時計の音、それに混じって聞こえてくる自分自身の周りの環境音(自動車が通り過ぎる音や風鈴の音 etc)、そして自分自身の声。これら全てを耳という感覚器官は統合的価値として創出してくれる。ここに世界的に孤立した言語としての日本語が加わると、他の国では再現することのできない独特の価値ができ上がる。
一般に情報学がいうところの“情報量”が多いほど深いコンテンツになるとは限らない。例えば、かなり以前に早稲田大学の機械工学科にシルエット(影)伝送技術の研究者がいたが、注目すべき情報が少ない場合はそこを凝視することになるので、シルエットとして伝わってくる人の影の動きだけに着目した方が、(表情などでごまかせないので)その人の気配が手に取るように伝わったりするのである。一冊の書籍よりも、たった一枚の絵葉書に添えられた手書きの文字の方が人の心を動かしたりもすることも多い。
4Kなどの高解像度映像は初めて見たときこそ大いに感動するが、視覚は状況適応能力が極めて高いので、残念ながら“すぐに慣れる”。10分も見ていれば、高解像度があっという間に日常に成り下がる。ところが音は、発生するたびに小さな感動が持続する。音、特に人の声は常にその直前までは存在しなかった“意味(signification)”もセットで運んでくるので、感動が希釈化されにくい。これは、何ものにも代えがたい素晴らしい機能だ。
余談だが、東京R不動産は築50年のオンボロマンションを“レトロ”と言い換えることで、そして、オイシックスは「とろなす」という実在しない野菜を販売して成功した。ことの良し悪しはともかく、そもそも人にはコピーに騙されたいという願望がある。
しかし例えば、観光は産業だと認知してしまうととんでもないことになる。実在するのは宿泊業や飲食業なのであって、観光という産業は実在しない。観光は産業ではなく“ある種の態度”なのだ。それも(旅の恥はかき捨て、のように)資源や制度を荒らしまくる乱暴な態度になりがちなので、外国人観光客が増えたことを手放しで喜んでいると、数十年後に取り返しのつかないことになるだろう。
このように、主役は案外隠れたところにいる、ということに意識的になると道を踏み外す確率がグッと低くなる。同様に映像の場合も、実は音が隠れた主役なのだと意識しておけば、斬新なビジネスの展開が考えられるはずだ。
品質には天井(sealing)が存在しない
5Gの三つの特徴(超高速、超低遅延、多数同時接続)のうち、最も重要なのは低遅延である。遠隔治療のようなリアリティのあるtangiblebits(遠隔操作)をイメージすると判りやすい。指先の微妙な感覚を伝送できるようになったのだ(知性はアタマの中ではなく指先の動きにある。手先が器用な人が賢く見えるのには根拠がある)。
それに比較すると、高品質な映像が伝送できるというような話は、割とどうでもいいことだ。“品質”は資源をより多く浪費すれば確かに向上するが、利益率はどんどん低下する。あなた自身、残業時間を倍にしてもこなせる仕事量がほとんど増えないことを痛感しているはずだが、実はそれと同じである。品質には天井(sealing)が存在しないのだ。ほどほどの品質でさっさと切り上げて帰宅した方が利益は最大化する。
スポーツ中継などで自分だけの映像を再生する機能が5Gで現実的になる、などと喧伝(けんでん)されているが、そんな面倒なことをする人はほとんどいないだろう。それよりは「同じ画面を同時に見ている人がこんなにたくさんいる」という“状態(同時性あるいは共時性)”を演出してくれたほうが数倍嬉しい。自分の判断、すなわち、今その画面が注目に値すると感じている自分の状態に間違いがないことを確信できるからである。
従来型広告ビジネスは消滅する
注目すべきシーンの直前でCMが挿入され、CM終了後に少しロールバックして同じ映像を流すことで視聴者が離れるのを防ぐ、などという陳腐な古典芸能はいい加減止めてはどうか。そんなこともあり、ここ10年以上、民放は全く視聴していない。さほど優れているわけでもない自分のアタマがさらに悪くなりそうなバラエティもどきの騒々しい番組しかないのも(視聴しなくなった)もう一つの理由だ。公共放送であるはずのNHKでさえこの傾向(=とにかく騒々しい)に便乗している気配があり、実に嘆かわしい。
Netflixや(最近でいえば)Disney+にシフトするのは当たり前である。Youtubeでさえ、筆者の周りではほぼ全員がYouTube Premiumを利用している。放送にカネを払うという習慣はずいぶん前からケーブルテレビを中心に“当たり前”になっていることを再認識していただきたい。
そもそも、この世の中にある森羅万象すべてが広告なので「それが広告か番組か」という議論は不毛だ。例えば、筆者が運営するメディア、WirelessWire News に登場する執筆者が書く記事は、「私はこういう記事が書ける人物です」という筆者自身のPR(広告)とみなすことができる。その意味において、NetflixもNHKも全て広告なのであって、視聴者にとって重要なのは、その情報が役に立つ信頼性の高いものかどうかだけである。
なお、Webメディアは現在、コンテンツ課金に躍起になっているが、今後はメディアとは無関係な企業のホームページでさえ、一部のコンテンツには課金する(ペイウオール:paywallを設置する、という)ようになるだろう。儲けるためではなく、本気のユーザーだけにフィルタリングしたいからだ。ただしこれも、「良質なコンテンツだから課金できる」のではなく、一種のファンクラブの会費のようなものだと考えたほうが無難だ。
イノベーションはオモチャのふりをして忍び込んでくる
これはIT業界では常識である。アップル(Apple)が最初にコンピュータを発売したときも、「あんなものは業務に使えない」という反応だった。最近でいえば、GoProが登場した時も、映像のプロはあれが自分のビジネスに大きな影響を与えることはない、とタカをくくっていたはずだ。
しかし、オモチャのふりをして既存の業界に潜入するのは、イノベーティブなサービスやマシンの常套手段だ。そもそも、最初はカネがないので貧乏くさいものしか作れない。しかし、ユーザーが徐々に増えてくると、少しづつ“それなりの”商品として成長し、ある時期に既成概念で凝り固まった古臭いものを追い越してしまう。ハードウエアの場合はまだわかりやすいが、目に見えにくいサービスや制度のイノベーションは非常に厄介なことになりやすいので要注意である。
距離が近いということ自体が財産である
他のセッションでは、「キー局は生き残れるか」などという悠長な議論を行なっているようだが、「貴重な地上波を浪費して馬鹿を大量生産する装置」は、いうまでもなく不要である。そういう瑣末な議論を飛び越えて、日本自体が生き残れるかどうかが怪しくなり始めている。
最早、日本は先進国ではない。ヨーロッパにある凡庸な国の一つのレベルまで、とりあえずは成り下がったのが現状と思われる。だからこそ、日本らしさとは何だったのかを改めて見直す必要がある。そろそろ「欧米では」を起点に議論を展開するのは止めよう。日本人らしい5Gの使い方、あるいは放送のありかたを再実装しなければならない。
今後は地域が主役になる。距離が近いということ自体が財産なので、地方局は徹底的に地元に密着した“何か”をやり続けることで信頼を獲得できるはずだ。ただし、地元が自然災害で大きなダメージを受けている時にキー局が作った番組を無定見に流しているような地方局は、誰のためにもならないのでさっさと消滅したほうがいい。
ローカルナレッジ(地域固有の知恵)には、その地域でなければ発現させることができない知見と、どの地域でも利用可能な汎用性の高い知見の2種類がある。特に、前者に注目することで、当該地域の、ひいてはその地域独自のコンテンツ価値を創出することができるだろう。
ただし、“(ある種の)貧乏くささ”こそが日本のお家芸だ、ということも併せて自覚しておきたい。日本ほど“スマート(Smart)”という言葉が似合わない国はないのだが、某経済新聞が「SmartWork特集」などというものを展開していて、こんな記事を書いている記者も、それを読む読者も、そこはかとなく気恥ずかしいと感じているのではないか。
注1)
例えば、短歌という文学は5+7+5+7+7=31(文字)という制約がパッケージに該当する。このように、パッケージは目に見えるものだけとは限らないことに注意しておきたい。
- 書名
- 会社をつくれば自由になれる
- 出版社
- インプレス/ミシマ社
- 著者名
- 竹田茂
- 単行本
- 232ページ
- 価格
- 1,600円(+税)
- ISBN
- 4295003026
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