57

インターネットとは何か?

「インターネットって通信回線のことでしょ?」は間違いではないが正しいとも言い難いので、本質的だが少々乱暴な解説をごく簡単に。これから起業する中年サラリーマンが情報通信革命を煽るメディアの報道などに右往左往しなくて済むようにしたい、というのが目的だ。押さえておくべきポイントは「情報通信革命なるものの正体は『仮想化』に尽きる」いう点だ。

「インターネット」とは、通信回線そのもののことを指しているのではない。デジタル・データをやり取りするときの「約束(=ルール)」を表す言葉だと理解しておこう。専門用語で「プロトコル」という。正確にはインターネット・プロトコル(IP)とインターネットは別モノだが、このあたりの学術的な区別はとりあえず無視する。

この約束が、通信技術者の従来の常識からすれば「ふざけんな、これじゃ危ないだろボケ」と言いたくなるくらい、かなり大雑把だったことが逆に「使いやすさ」につながり、あっという間に普及した。妙な日本語だが普及したのは「論理的で仮想的な約束」である。従って、インターネット「に」つながる、という言い方は少々ヘンだが、インターネット「で」つながる、は間違いではない。

この「使いやすさ」というやつは、セキュリティの甘さとトレードオフの関係にあるので、無防備に礼賛されるべき仮想化技術というわけでもない。また、インターネットを開発したのはIBMでもGoogleでもなく、一種の公共財として開放されていると考えて差し支えない(正確にはこれも微妙に違っていて、米国商務省や国防省あたりが裏でいろいろと画策しているはずだが)。

さて、一般にイノベーション(=原理原則の質的および抜本的な変更、ということにしておく)は、その初期段階においては非常に陳腐(安っぽい)という特徴がある(1980年代初期のパソコンは実際ホビー=おもちゃだった、など)が、インターネットもその意味においてイノベーションを名乗る資格がある。

インターネットは単なるルールなので、そのルールを乗せる「物理的な回線」は、電話線だろうと光ファイバーだろうと、あるいは無線でもなんでもかまわんぞ、というところが破壊的(disruptive)と言われる所以である。飛行機だろうが船だろうが貨物列車だろうが、ある特殊な荷札(タグ)をつけてるのなら運んでやるよ、ということと同じと考えればいい。

ただし、インターネットは荷物をデジタル・データに限定している。「たまに荷物を落っことすこともあるけど、まあそう目くじら立てるなよ」とも言っている。こういう杜撰さが気に食わないNTTの研究者がもっと高級で複雑なルールを作って提案したが、国内外の誰からも相手にされなかった、という歴史もある。ともあれ、インターネットは「ユルい約束」で「接続したとみなす」という仮想化を行っているところにその本質がある(ここがもっとも重要なポイントである)。

■仮想化は日常的なものである
仮想化は、私たちの日常生活では比較的ありふれた態度・行為・モノだ。例えばキャンプ場では「とりあえず今夜はこのテントを家ってことにしておこう」という一種の仮想化が行われる。家の本質(essence)を寝ることと考え、ごくシンプルに表現したらテントみたいなものでよかろうということになった、のである。一見、いい加減な態度にも見えるが、とりあえずその夜はそれで構わないはずである(ただし、長期化すると腰が痛くなる)。

最近流行の民泊(みんぱく)も「俺の部屋、最上階だし海も見えるから、この日だけはここをホテルってことにしたら借りてくれるヤツがいるんじゃなかろうか」という一種の仮想化だし、盛んに物議を醸してはいるが、例のUBER(ウーバー) も「今だけ俺をタクシードライバーってことにしてもらっていいよ」という仮想化である。

もっと身近なところで言えば、手ぬぐいは、バスタオルとハンドタオルとハンカチの3種類の機能を仮想化したものと言えないこともないし、「お風呂でアタマ洗おうと思ったらシャンプーが切れていたので、とりあえず石けんで洗っちゃえ」というのも緊急避難的な仮想化だ。しかし、こうなってくるとどうやら自分の人生自体が単なる仮想に過ぎないらしいというイヤな予感がしてくるのでこのあたりで止めておく。

最近筆者の友人が「面白い食堂がある」と連れて行ってくれたのが東京・神保町にある「未来食堂」だった。既に様々なメディアで頻繁に取り上げられている有名店だが、一言でいえば「家庭料理の仮想化」に成功している店だと言って良い。家庭料理の本質とは「オーダー(注文)という概念が存在しない」ということである。

「味が適度にブレている」とか「健康を第一に考えてくれている」というようなことは、仮想化にあたっては枝葉末節だ。「何が出てくるかわからないけど我慢しろ」が家庭料理の本質、基本的な態度である。未来食堂はセンスのいい仮想化に成功しているように見えた(センスの悪い仮想化は長続きしないという例は後述する)。

仮想化は、昨今の情報通信技術とは無関係に太古の昔から行われていたことでもある。狼煙(のろし)を合図に突撃するなんてのも一種の仮想化だし、かの黒電話でさえ、とりあえず声を聞くだけて会ったような気になっておくための仮想化技術だったとみなせる。

最近はこの仮想化されたはずの電話がさらにもう一段仮想化され、スマホのアプリ(Skypeなど)に成り下がってしまった(仮想化されたネットワークの上に電話アプリが搭載され、そのアプリが「俺が電話だ」と言い張っている様子というのは、古くから通信業界にいる人にしてみれば本末転倒で実に奇妙だと思うはずである)、と思ったらさらにそれを仮想化してLINEのスタンプでいいじゃん、ということになっていて(これはこれで実に良くできている)どこが終点なのかさっぱりわからん、仮想化は続くよどこまでも、だけどそろそろ勘弁してくれ、というのが(筆者も含む)中年オヤジの悩みだろう。もう若くないのでついていくだけでタイヘンである。

ちなみに可愛いLINEのスタンプを虫眼鏡で拡大して見てみると、3種類の色のドットが明滅しているだけであることが良くわかる。これがデジタルデータの正体だ。遠くから見るとスタンプに見えるように演算しているに過ぎない。まあ何事もあまり近くで見すぎると幻滅することが多いのが世の常なので、万事ぼやーっと遠くから見て見ぬ振りをしておくに限る。

■いわゆる「情報通信革命」の本質はすべて仮想化である
「情報通信革命だ」ということでメディアが大騒ぎしている事象、例えばクラウドソーシング/ファンディング、フィンテック(fintech)、ビッグデータ、人工知能、インダストリー4.0 、自動運転、等は仮想化の技術という意味においては全部同じである。

いちいち別の言葉で大騒ぎしたほうが雑誌や書籍が売れ、広告や視聴率を稼げるというだけのことだ。筆者もこれに加担することを商売にしている(実に嘆かわしい)。ついでに言えば、これらのバズワードは大半が政府の「新産業構造ビジョン」に含まれていて、見事なまでにすべてが欧米の後追いである(日本国民としてはちょっと恥ずかしい)。

会社経営の観点からすると、まったくアタマを使わずに欧米トレンドに便乗しただけの差別化要因ゼロの二番煎じ戦略は単なるレッドオーシャンに過ぎないので、大きくコケることはないが、おそらく儲からない(アニメとゲームとおもてなしと職人芸と和食に集中して資源を投入して散ってしまうほうが日本らしいと思うのだが)。

別の業界では、まるでたった今始まったかのように「私たちはモノではなくコトを売る時代に足を踏み入れたと思うのです」なんてことをしんみり語っている馬鹿が散見されるが、太古の昔からの仮想化の歴史をご存知ないのであろう。これはこれで心が痛む。

■デジタル・データが仮想化を劇的に加速させた
ただし、仮想化は割と最近になって、インターネットを含む情報通信技術によって劇的に加速された、というのが第二幕である(二番目に重要なポイントがこれ)。なぜとんでもなく加速されるのかというと、その安っぽいルールに則って運んでいるものがデジタル・データだからだ。デジタル・データには見逃すことができない3つの特徴がある。

1)複製(コピー)してもまったく劣化しない
2)複製(コピー)するコストはゼロとみなせる
3)搬送は瞬時に完了し、運賃は事実上無料である

ヤマト運輸あたりが聞いたら悲鳴を上げそうな特徴だ。

「手紙書いて封書に入れて切手を貼ってポストに投函すると、郵便局員がバイクでやってきて郵便局に集めた後、トラックに積んで局間を移動し、別の郵便局員がバイクで配達してくれる」を事実上タダで行うのがインターネットメールだ。配送料がほぼ無料とみなせる上に、数万人くらいまでなら瞬時に届くという、情緒もへったくれもない破壊的仮想化世界なのだ。

デジタル・データをインターネットというプロトコルで運ぶ仮想化作業に課題があるとすれば、この仮想化のプロセスにおいて剥がれ落ちてしまったものの中に本質的なものがあった可能性に気づきにくいということだ。利便性がそれを隠蔽してしまうのである。前述のインターネットメールにはない効能が、(特に手書きの)手紙にはあることくらい誰もがわかっていることだが、つい利便性に負けてしまうわけだ。

逆に仮想化作業を行う人のセンスが悪いと誰も使わない、ということもある。設営するのに3時間もかかるが猛烈に頑丈なテントを開発してしまった製作者は、良心的ないい人である可能性は高いが、ビジネスセンスが完全に欠落している。そんな面倒くさいものは誰も使わないからである。仮想化においては、正しいか間違っているかという倫理よりは、便利か不便かという感情が優先してしまう。

■仮想化で失われるものと得られるもの
テレビ会議(telepresence)も「会議しているということにしておこう」という一種の仮想化である。しかしこの仮想化はたくさんの大切なものを削ぎ落とし過ぎてしまった。「居眠りしている隣にいる同僚」「張りつめた緊張感」「ディスプレイの外にある光景」「外をバイクが通過していく音」といったものがばっさり切り捨てられている。

議論(=言語を利用した論理的な交渉)の本質的な内容は伝わっているではないか、と開発者は言うが、この開発者は会議の本質が議論の中身ではなく、同じ時刻に同じ場所に集合するという態度の中にある、ということがわかってない。

地方に本社を構える中小企業の社長が頻繁に東京を訪れざるを得ないのは、テレビ会議が会議にならないことを知っているからだし、あまり人望のない専務が「俺はそんなことは聞いてない」と言って拗ねてしまい反旗を翻すなどという茶番がこれからも続くのは、自分の部屋まで根回しに来てくれなかった寂しさの裏返しである(こういう専務こそ真っ先に仮想化したほうがいいような気もする)。

仮想化は原価率を劇的に下げる。従ってどんな業種の経営者も、そしてこれから起業する人も、好むと好まざるとにかかわらず武器にせざるを得ない。例えば、前述の民泊も実は昔からよくある制度に過ぎないのだが、これにインターネットと情報通信技術(具体的には、標準化された検索技術・データベース技術・予約システム・ブラウザというアプリケーション、など)が結合するとオーダー数が桁違いになる。

結果的に一泊あたりのコスト(原価)をぐんと下げることになるので、人気のある民泊は笑いが止まらないという状態になり、近傍にある高級ホテルは閑古鳥が鳴くであろう。そんなに大繁盛する民泊を運営している人が本当に幸せなのか、という議論はとりあえず脇に置いておく。

この場合、本当に儲かるのは部屋を提供する当事者ではなく、民泊予約受付システムを主宰している事業者である。これを「プラットフォーマー」というイヤらしい言葉で呼ぶ人もいる。店子がプラットフォーマー(主宰者)より儲かるということは基本的には、ない。民泊においてはairbnbがおそらく圧倒的なシェアだろう。

仮想化はシェアの獲得もデジタルパワーで加速してしまう。結果として、グローバルマーケット(世界市場)で情報通信分野においてプラットフォーマーと呼ぶにふさわしい日本企業は1社も存在しない(日本語圏だけで威張っている会社ならいっぱいあるけどね)。いずれにしても「本当に働いている人」よりも「働く人をデジタルとインターネットでサポートする人」のほうが儲かるというのは、なんとなく理不尽な気がしないでもない。42/54的には「他から攻撃される可能性が低い、ものすごく小さなプラットフォームを作れ」がアドバイスになるのだが、これはまた別の項で書くことにする。

デジタル・データは仮想化を加速する。これはインターネット上のビジネス・ルールの寿命が短くなることを意味する。バズワード(流行ことば)が長続きしないのはこれが理由だ。こっちのアルゴリズム(手順)のほうが正確で安上がりだ、ということになったときのスイッチング(移行)コストが非常に小さいので、皆が雪崩を打ってそっちに行ってしまうのだ。節操のない軽薄な日本人および政府にはうってつけの性質ではある。

今はまだかろうじて斬新に聞こえる「ディープ・ラーニング(deep learning)」という言葉も早晩陳腐化するだろう(絶対そうなるから見ててごらん)。ITにご執心だった経済産業省も最近はすっかりIoTである。総務省は同じ内容をICTと言う。なぜわざわざ違う言葉にするのかというと管轄が違うからである。身も蓋も仁義もないのである。

こういう馬鹿馬鹿しい縄張り意識にも、零細企業の社長はせっせと付き合うことになるのだ。ともあれ、これからあなたがどんな業界でどんな会社を立ち上げようと、この加速する仮想化の流れと無関係ということは絶対にないことを保証する。イヤな世の中になったもんだ。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
Amazonで購入するKindle版を購入する