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起業にあたって用意すべき一冊

繰り返し参照できて、寿命の長い書籍を常に手元においておきたい。その意味で絶対の自信を持ってお勧めできるのは「類語辞典」である。

「私はこうして起業した」系の書籍は、人によって事情は異なるという当たり前のことが確認できるだけだ。ストーリーそのものを楽しめる余裕があるのなら別だが、大半は読むだけ時間の無駄だろう。ましてや上場に成功したベンチャーの社長が作った書籍は、異次元の生物によるエピソードなので、カネをドブに捨てるようなものだと考えたほうがいい(彼らの多くは私たちが望むような働き方をしていない)。

そもそも即効性のありそうな書物の効能は短期間で揮発するのが世の常だ。これらは本来書籍の形にする必要がないノウハウ集、著者自身をPRするための紙の束に過ぎない。筆者の周りには数多くの「仕事の達人」がいるが(彼らの多くは著者でもある。メディアを開発・運営する上でのメリットを一番感じるところだ)彼らが勧める書籍に「仕事術」系が一切存在しないのと同じである。

筆者の事務所にはそこそこの蔵書があるので、それを目にした来訪者から比較的頻繁に「何か面白い本ないですか?」と聞かれることも多い。しかし何が面白いかは個別の問題であり、問いかけた人が抱えている詳しい事情と彼らに対する私自身の深い愛情がなければ、何を勧めてよいかなど判るわけがない。

「自分が何を読むべきか」は比較的大きな書店を「真剣に」1時間程度うろついていれば、書籍のほうから「あなたに必要なのは私ですよ」と呼びかけてくるはずで、それがあなたにとってのお勧めの本である。自分自身の課題発見のためには書店を真剣にうろつくのが一番なのだ。

実はamazonのような協調フィルタリングによるレコメンデーションでは絶対に実現できない機能がこれだ。加えて、書籍そのものが発する物質性によるメッセージがさっぱり伝わってこない。

うろつくべき書店は、経験的には広めのワンフロアで多くの書籍を網羅しているところが良い。今はなくなってしまった紀伊國屋書店・旧渋谷店のような書店が最適(現在は西武渋谷店となっており、コンセプト自体は旧渋谷店とはかなり変わってしまった)。

「起業に役立つ書籍」は「起業しなくても役立つ書籍」であって欲しいし、繰り返しの参照に値するものにしたい。そういう意味も込めて不特定多数に絶対の自信を持ってお勧めできるものを一冊だけ選ぶとしたら「類語辞典」だろう。

講談社の『類語大辞典』、または角川書店の『角川類語新辞典』が定番だ。同じものがハンディタイプの廉価版として発行されている場合もあるが、(これから述べる使い方とも関係するが)数千円の差でしかないので大きな判型のものにしたほうがよい。

kodansha   kadokawa

類語辞典は「当該の言葉との類似度が高い言葉を列挙した辞典」である。いわゆるパラフレーズ(言い換え)を駆使するときに大いに役に立つので、編集者や執筆を仕事とする人向けの専門書であると思われがちだが、実は営業に役に立つ。現実的な利便性よりは、言葉そのものをより深く理解するための一助になる。広辞苑(岩波書店)のような使い方を想定して作られている辞典ではあるが、実際は小説のように「読んで」ほしい。

似たような意味なのに別の言葉として存在していることの必然性が矢継ぎ早に提示されるので、いろいろな妄想を膨らませることができる。さらに、パラフレーズを多用すると「説明したいと思っていることの深層」をより的確に相手に伝えることができる。これが、ビジネス上の交渉においては極めて強力な武器に(必ず)なる。

例えば、あなたが「起業にあたっての趣意書」を執筆することになったとしよう。さっそく「起業」の類似語を検索してみる。起業は「開始」というジャンルに含まれることがまず理解できる構造になっている。続いて「始める」「踏み出す」「乗りかかる」「仕掛ける」「着手」「発動」「開始」「出発」「再出発」「幕開き」「起工」「事始め」「草創」「創始」「旗揚げ」「立上がる」「手を染める」といった類語が続々と登場する。あなたが会社を作るときの「想い」が立ちどころに拡張されるのが実感できるはずだ。前述の類語群を駆使しつつ日本語として通じるように適当な微調整を施せば、あっという間に名文ができあがる。パラフレーズは「理知的な強調」をサポートするレトリック(修辞の技法)として極めて有効なのだ。

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少し前の話だが、とある繁華街の店舗で母親とその娘らしき二人連れがショッピングをしていた。彼女たちが繰り返し発していたセリフは二つだけ。「カワイイ」と「ビミョー(漢字の「微妙」とはビミョーにニュアンスが異なる)」である。たった二語で世代を超えて通じ合える能力の高さに愕然としたが、おそらく二人の間で共通する何らかのノンバーバル系の文脈(context)が成立していたのだろう。ビジネスでは(特に一人歩きしてしまう可能性が高い企画書などにおいては)こうはいかない。より多くの人に正確な意図を伝えるために類語辞典は必携である。

 

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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