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副詞に潜む「好き」に着目せよ

本当の「好き」は名詞や動詞ではなく副詞の中に隠れている。副詞は動詞の修飾語として利用されることで「状態」あるいは「程度」を表す。副詞こそがその人の「好き」を読み解くときのキーワードになる。オブジェクト(対象物)の好きではなく、状態の好きを発見しないまま起業するのは危ない。

仕事のモチベーションには外的要因と内的要因がある。外的要因には、昇級・昇格など外部から与えられる環境の変化、あるいは結婚や(配偶者の)出産などによる「気持ちが奮い立つような出来事やプレッシャー」など、数多くの種類が存在する。

基本的には他者からの何らかの影響であることがこの外的要因の特徴なのだが、長続きしないという弱点も併せ持つ。外的要因は状態の変化に対するモチベーションなので、瞬間的にボルテージをぐんと上げたとしても、その状況自体が日常化するといとも簡単に消滅する。

例えば、給与が上がってやる気が持続するのはせいぜい1カ月、翌月の給与明細が先月と同じ金額になるのは当たり前だと思った瞬間にモチベーションはあっさり消える。外的要因が激しくアップダウンするような落ち着かない仕事生活を望んでいる人はさほど多くないのも事実だろう。

一方、内的要因というのは極論すればたったひとつだ。それは当の本人もうまく説明できない「好き」という感情にある。好きという感情は、言語を駆使していかに論理的に説明できたとしても、聞き手がそれに共感できるのは同じ事が好きな場合に限られる。

実際のところ「好き」は説明不能な感情である。遺伝的な理由、あるいは環境因子や人間関係などからそれが好きになったのであろうことは容易に想像できるが、好きという感情は分析すること自体にあまり意味がない偶発的な感情だ。

理由がわかったところで変えられるものでもないし、変える必要性自体を本人が感じていないからだ。そしてこの「好き」という内的要因は比較的持続しやすいという強み(場合によっては弱点になるが)がある。好きは論理という攻撃に対してきわめて堅牢なので、これを撃破するのは至難の業でもある。

これを「起業のモチベーション」に当てはめてみると、外的要因による起業は持続力が弱く、内的要因による起業は持続力が強い、と言えるだろう。「好きな業務に従事していて満足していたのに突然の異動が発令され、まったく興味のない仕事に配置転換になってしまった。俺、この仕事やり続けたいんだよなー。仕方ない、会社作っちゃえ」といった起業は持久力がある可能性が高い。

しかし、自分の好きとは無関係な事由が起業の動機になっているものは、それを続けるのが大変であろうことは容易に想像できる。代表的なものは「怒り」だろう。所属していた会社や上司、あるいは時の政府に対する怒り、さらに時代に対する被害者意識のような「負のエネルギー」を源泉にして起業するのはロクなことにならないような気がする。

筆者自身、仕事のマンネリ化を防ぐために「怒り」を栄養ドリンク剤的に利用し、自分を励起状態に置くという行為を意図的に行うことはあるが、持続しない上に、下手をするとクスリが切れたあとは服用前よりさらにエネルギーレベルがダウンするリスクを実感している。そもそも怒りを持続させるのは健康問題にまで発展しかねない。とにかく不満を起爆剤として利用することも含め、外的要因を起業のきっかけにするのは止めた方がいいだろう。

さて、「何が好き?」と聞かれると「読書」「旅行」「魚釣り」「スポーツ」といった「趣味の名詞や動詞」を思い浮かべてしまうことが多いが、自分の本当の「好き」は名詞や動詞ではなく副詞の中に潜んでいる。副詞は動詞の修飾語として利用されることで「状態」あるいは「程度」を表すことが多い。

例えば、(がんがん)飛ばす、(こそこそ)打ち合わせする、(正々堂々と)戦う、(わいわい)騒ぐ、(大量に)作る、(ちまちま)作業する、(のんびり)過ごす、(簡単に)考える、(こつこつと)続ける、(大げさに)騒ぐ、(きれいに)片付ける、(ぐんぐん)伸ばす、などにおける()の言葉=副詞こそがその人の「好き」を読み解くときのキーワードになると筆者は考えている。オノマトペ(擬態語)などもこれに含まれる。要するにオブジェクト(対象物)の好きではなく状態の好きを発見せよ、ということだ。

副詞の好きを自分で発見するのは意外と難しい。直裁に誰かに「何が好きそうに見えるか、どういう状態だと自分が輝いて見えるか」などと聞いてみるのも悪くない(普段からあなたをよく観察している人はそれを見抜いているケースが多い)が、もうひとつの方法としてはメタ認知(Metacognitive Ability)という手法がある。

楽しそうにカラオケで歌っている自分を同じ部屋の天井付近から別の自分が観察するようなクセをつけるとカラオケがうまくなる、ということが実証的に知られているが、このような第三者的視点を意識すると自分がよく見えてくる。メタ認知については慶応義塾大学の諏訪正樹先生(諏訪研究室のサイト http://metacog.jp )あたりが詳しいはずである。

「やりたいこと」「やるべきこと」「できること」をそれぞれ円で描いて、ベン図のようにその3つの円を重ねたときに重複する面積を大きくせよ、とはよく言われるところだが、それらの円にはプライオリティがある。当然のことながら、いちばん重要なのは「やりたいこと」、すなわち「好きなこと」の面積を増やすようすることだ。仕事が俄然楽しくなる。あとの二つの円はわりとどうでもいいのである。特に「自分がやるべきこと」にうるさい人というのはたいてい教条主義的で貧乏くさくかつ汗臭いので、なるべく近くに寄らないで欲しいと思う。

レイモンド・カーツワイル(Raymond Kurzweil)が2045年に訪れると予測しているシンギュラリティ(Singularity:技術的特異点)、すなわち「人工知能が人間の能力を超える日」は、自分の仕事が剥奪される日として意識されているようだが、むしろやりたくないことは全部人工知能まかせにできてしまうので、自分自身は好きなことだけやっていればいい時代になるはずだ。

そしてそれは、仕事と遊びの区別が「本当に」つかなくなる時代なのである。こんなにありがたいことはない。そういう意味において人工知能は、私たちが「好きなことの面積を増やす」方向をサポートしてくれるはずだと筆者自身は楽観視している。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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