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小学生にプログラミングを必須科目にしてはいけない

何かを創造しようとする時に、論理的であることはさほど重要なことではない。出来上がったサービスや作品に共感できるとか美しいと思える時には、論理のレイヤーではなく表現のレイヤーが重要な役割を果たすからだ。論理的思考がその威力を発揮するのは、意外なことにサービスや作品を創造した後である。

戦前は多彩かつ複雑なパス(経路)が入り乱れていた日本の教育制度は、敗戦と同時にポツダム宣言を受け入れることで、非常にシンプルな「6.3.3(現在は事実上の6.3.3.4)制」に半ば強制的に移行された。効率重視のマスプロダクション・システムとしての教育制度(同じ年齢の子供が同じ教育を受け、一定時間が経過したら子供の意思とは無関係に次のステップへ強制的に押し出される)が、大量生産・大量消費を前提とする市場拡大主義と極めて相性の良い体制だったのは事実だろう。

しかし本来、教育の基本は“個別学習”にある。簡単に言えば、個々の子供が、自分の好きなことに好きなタイミングで好きなだけ没頭したりあるいは離脱できる環境を作り、かつそれを尊重するのが親と教育関係者の本来の義務のはずである。必然的に“必須科目”なる強制的な学習は必要最小限にとどめるべきで、それはおそらく「挨拶・国語・算数」の3言語で十分だろう(算数が唯一の世界共通言語として自然界に実在しているという事実は、小学生も高学年になれば理解できる)。

必須科目を最低限にしておかないと、自分の好きなこと、本来やりたいことを勉強するための時間が捻出できない。従って「小学生にプログラミングを必須科目に」という論の是非を問う以前に、必須科目なる“思想”が「できることなら避けるべき考え方」であることを強調しておきたい。つまり、本当に重要な論点は必須科目の在り方であり、プログラミング必須、英語必須といった議論は枝葉末節なのである。

さて、それでもプログラミングを必須科目にと叫ぶ人たちが異口同音に主張するのは「論理的思考能力の向上」が理由らしい。しかし、もしもそうだとしたら、この話は少なくとも3つの点で論理的ではない。

その1)
「論理的であること」と「思考すること」は、いったん分離して検討すべき別の“行動”である。例えば「物想いに耽る」という時の頭の中は全く論理的ではないが、思考していることは確かだ。一般に(これが理解できない人が案外多いのだが)論理的に思考することから新しい成果は“出てこない”。逆に物想いに耽っていた時に突拍子もないアイデアを思いついたりするのだが、この時、脳内は決して論理的には起動しているわけではない。「論理的思考」なる言葉の存在を認めたとしても、これが様々な思考の種類の中で最もプライオリティが高いと言い切れる論拠はどこにも存在しない。

その2)
論理的とは「ある根拠や論拠に基づいた推論が成立している」という状態を示しているにすぎない(これが“新しい成果が出ない”理由である)ので、論理的であることそれ自体は価値中立的である。論理的であることは、正しい/間違っているという考え方とは無関係だということだ。なお、論理的な考え方(推論の方法)は、下記の3種類しか存在しないことがよく知られている。

a)帰納的推論
多くの経験から一般解を導き出す、ベーコンなどのイギリス経験論の哲学者たちがまとめた推論の方法。

b)演繹的推論
前提となる一般的な原理が正しければ、すべての個々の事象の結論も真になるという、デカルトを嚆矢とする大陸合理論の哲学者による考え方。

c)アブダクション(abduction)
すでに起きてしまった事象をうまく説明するための仮説を作るための推論。帰納も演繹も巻き取ってしまうような大胆さを特徴とする。米国の哲学者パースが提唱。

余談だが、筆者が以前勤務していた会社を辞めた理由の一つに、この「論理的推論能力の高い秀才」の存在がある。一般に新規事業は、それが存在しない理由をきわめてクリアに論理的推論で説明できる(何しろ“存在しない”のだから当たり前である)。しかし、新規事業というのは存在しないからからこそ試してみたいわけで、会社がそれを阻む論理的思考に満ち溢れた集団だったことに嫌気がさしたのだ。

ただし、妄想と大差ない新規事業の実行が承認されれば、そのあとは論理が大活躍するフェーズにシフトする。その時には、秀才の多さがきわめて貴重な戦力に転換するのも事実だ(幸か不幸か、現在筆者が経営する会社もなぜかスタッフが秀才だらけなのが不思議ではある)。

その3)
仮に、百歩譲って“論理的思考能力”なるものが重要だとしても、それを実現するための最良の方法がプログラミングであるという保証はどこにもない。そもそもある事象を創造する時に、論理的であることが仮に必須だとしても、それだけではかなり不十分であることに疑いの余地はない。

共感できるとか美しいと思える時には、論理のレイヤーではなく“表現のレイヤー”が重要になるからだ。むしろ世の中は、全く論理的ではないのに共感できる事象に満ち溢れている。そう考えると純粋に論理的思考能力を鍛えることができるだけでなく、同時に何か別の価値(e.g. 美しさ)を同時にもたらす可能性があるような学習の方が、むしろ論理的思考能力の発揮を助けるとさえ言えるだろう。

筆者がプログラミングなどよりも何を優先すべきと言いたいか、賢明な読者の方はもうお分かりのことと思うが、それは「読書」に他ならない。それも「ビジネスマンのための速読術」といった貧乏くさい読書ではない。少ない良書(一般に良書の大半は古典である)を時間をかけて、そしてできれば繰り返し読む、いわゆる「遅読」が論理的思考と表現力を同時に鍛えることになるだろう。読書よりもプログラミングが重要だとはとても思えない。

(推測だが)そもそもプログラミングを必須科目にしたい人たちの思惑は実にシンプルだ。子供の教育にさほど強い関心があるわけではなく、プログラミング経験者を増やして情報通信産業や人工知能関連産業(?)で働いていただかないとこの国の経営が危うい、と考えているのだろう。しかしこれは、わざわざ政府が乗り出して作る必要がある制度だとは思えない(ついでに言えばこの産業が将来の日本を支えるとも考え難い)。

金槌と釘がなければ何かを打ち付けてみようとは思わないように、あるいは鉛筆がなければ何かを描いてみたいと思わないように、自分の近傍にどんな“道具”が転がっているかが、子供自身の学習環境にほかならない。

そして、今やいたるところにPCやタブレット、スマホが道具(教材)として溢れている。したがって子供は、大人の思惑とは無関係にそれらの道具に手を出す可能性が高い。つまり、プログラミングが得意な子供は“放っておいても”増えるに決まっているのだ。むしろプログラミングが好きな子供を“本当に生かし切るための環境”を用意する覚悟はあるのか、が問われることになるはずで、それが冒頭の「必須科目を減らした上で、自分の好きなことに好きなタイミングで好きなだけ没頭できる環境の提供」という話につながる。

そう考えると「小学生にプログラミングを必須にする」はその思惑とは裏腹の、実にアタマの悪いソリューションであることがわかる。必須科目が少ない方が、むしろプログラミングが大好きな子供が増える可能性があり、当該分野で活躍する人材が育つことになるだろう。

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夏の太陽光が他の季節とは異なる“懐かしい輝き”に映るのは、小学生の時の夏休みを想起するからだ。長い人生の中で、あのような体力に満ち溢れた1カ月のパラダイスは後にも先にも出現しない。学校から宿題は出るが、数日で片付けられるものばかりだったし(少なくとも筆者の子供の頃は)、夏期講習などという習慣もなかった。なんの義務もなく、毎日のように友達と海へ山へと遊び疲れていた日々は、好きなことだけに没頭できた懐かしい日々でもあり、やはりあの時だけの特権だったように思う。

ま、しかし、大人になっても一週間弱くらいは休めるだろうから、ここはやはり、少し分厚い、たった一冊だけの書籍(専門書であれ小説であれ古典を選んでいただきたい)をじっくり味わう期間にしていただくのが思い出深い豊かな夏となるであろうことを保証する。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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