73

顧客は“品質”をイメージできない

そんなバカな、と思うかもしれない。しかし、何度やってもそうとしか思えない。不特定多数のコンシューマーに向けた大量販売の経験はないので、あくまで特定の事業者へ納品するサービスや製品の場合に限定した話ではあるのだが、顧客はやはり“品質”をイメージできない、あるいは顧客の品質イメージを規定してあげるのが納品する側の義務のようである。

品質管理(QC:Quality Control)であれば、それを実現できるかどうかはともかく、定義・考え方としては比較的簡単だ。サービスや製品の堅牢性、耐久性、要求達成度、適切な寿命(賞味期限)の設定などについて、事前に決められた水準を満たしているかどうかを測定する考え方だと思っておけば良い。品質保障基準と言い換えても良いだろう。逆に言えば、測定可能(Measurable)でないものを対象とすることはできない。

一世を風靡した(もちろん現在でも継続しているが)「デミング賞」の受賞なるものが以前ほど話題にならないのは、日本の品質管理のレベルが総じて高水準で推移しているからだろう(一部の自動車メーカーを除いては、かもしれないが)。

しかし、私たちが日常的に利用する「品質」という言葉は品質管理に比べるとかなり多義的で曖昧だ。これは基本的に、

1)消費者は自分の欲しいものが判っていない
→ 自分が本当に欲しいものは実在しないことを知っているので諦めている。

2)市場拡大主義はプロダクトアウトと相性がいい
→ 大量生産に向いているものを受け入れざるを得ない。

3)品質は状況依存度が高い

という3つの理由による(1と2は同じことを言い換えているだけかも)。

筆者の場合、特定顧客のためにWebサイトをデザインし、システム構築を行い、運営(運用)を委託される、ということが多いが、顧客に当該サイトの品質イメージが湧くのは、多くの場合、納品の後である。「こういうものが欲しかったのではないですか?」を形で示すと、ようやくRFP(Request For Proposal)が書けるようになるといった具合で、話の順序が逆だったりする。とはいえ、実は顧客をあまり責められない。筆者自身も、何らかのサービスを外部に発注する場合、これと似たり寄ったりだからだ。

この時、納品する側に求められるのは、“過剰品質であること”だ。低予算のため、おざなりのWebサイトを納品せざるを得なかったことも何度かある。しかし、こういうものは大抵パフォーマンスが出ない。また、顧客との関係もその場限りになってしまい、お互いにとって「安物買いの銭失い」になる。

発注する顧客の立場から見ると、発注先の制作側が品質について「過剰になれる体制」を保証してあげることが(例えば見積りをひどく値切ったりしないなど)、結果的には安上がりになる。

零細企業において品質が過剰であり続けるためには、社長本人が深くコミットし続ける必要がある。残念ながら、零細企業の社長が関与していないプロジェクトの品質は桁違いに低いのが現実だ。

会社設立からある程度が経過して会社の規模がそこそこになる頃には、社長はかなり(体力的にも)くたびれてきているし、部下もそれなりに育っているだろうということで、社長宛に来ている案件を丸ごと部下に投げてしまうケースがある。発注者からすれば、このような扱いを受けたならば、オーダー自体を撤回したほうが安全だろう。社長はすべてのプロジェクトに関与しなければならない(関与の度合いに変化をつけることはできる)。零細企業における社長には、何歳になってもラクをする資格はない。

さて、以下は品質に関連した筆者の領域における余談だ。

テレビや雑誌などのメディアも、サービスである以上、品質という考え方と無縁ではない。例えば「ニュース」と「解説」という、性質と役割の異なる二種類の記事を比較すると、前者は急激な経時劣化が発生するので生鮮食品に近い管理が求められる。つまり“旬”でなければ意味がない。メディア企業は経営的にはROI(投資対効果)が優れているとは言い難く、(どんなに規模の大きな企業でも)走り続けないと倒れてしまう自転車操業になる。

それに比較すると後者は、商品としての派手さには欠けるが、繰り返しの参照に値することが多いので、寿命は長いことが多い。さらに、同じ解説記事でも個人名が排除されていると、よりコンテンツとしての堅牢性が高くなる(特定個人を礼賛・評論・誹謗中傷するような言論・解説は劣化しやすい)。

顧客は旬を味わいたいし、個人が特定されている記事を欲しがる傾向がある。すなわち品質保障水準の低いものほどニーズがある。ここに至って、ニュースは単なるエンタメに過ぎないことがわかる。ウィルバー・シュラム(Wilbur Schramm)が、「ニュースには馬鹿のためのものとお利口さんのためのものがあるのだが、もはや前者が増える一方で困ったもんだ」と嘆いていたのが1960年前後なので、世の中あまり変わっていないのである(ネットがこの状況に拍車をかけているのは間違いない)。

一方、高品質なコンテンツは専門家向けの特殊ニーズになるので、マーケットは散逸し個々のクラスターは小さい。つまり、新聞社が新聞という1本足打法で自転車操業を展開するのと、出版社が多品種少量生産になりがちなのは、実は同じ理由なのだ。

新聞社のインターネットビジネスは、伸るか反るかの博打になることが多いが、出版社は典型的な“下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる”経営(たくさんの種類を刊行しておけば稀にベストセラーが出る)なので、ネットビジネスの展開も覚悟が定まっていないことが多い。ベストセラーが出るとホームページがカッコよくなったりするのは、まあご愛嬌といったところだろう(出版社のネットビジネス戦略は基本的に非常にハードルが高いのだが、これについてはまた別途)。

さて、風邪を引いて体調が悪いのでさらに余談。

放送番組は「教養・教育・報道・娯楽」などで構成されるが、教養や教育については一定の割合以上の放送が放送法で義務付けられている。しかし、何が教養番組かについては、制作局の判断に任されている。結果として、現在のテレビ番組はどうなっているか。

NHKでさえ絶叫と番宣のパワーローテーションを繰り返し、無駄に金をかけた見るに堪えないコント番組を作り、民放に至っては朝から晩まで断末魔のスラップスティック(ドタバタ)だけを繰り広げている。チャンネルサーチしてみるとたいていCMである。もはや病気というよりは、うっすらとした狂気を感じる。「BGMがやたらと派手な量販店、実はお客は俺一人」というシュールな状況が全力で繰り広げられているテレビ業界には、品質などということを議論している余裕はないのであろう。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
Amazonで購入するKindle版を購入する