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ブレーメンの音楽隊

生物がやっていることは、基本的には自分と種の保存、および安全の確保のための行動のはずだ。群として行動することで大きな生き物のように見せ、生存戦略上の優位を確保しようとすることも多い。この時、人や人工物を単一の種(しゅ)ではなく多様な種として認識した上で、どのような協調行動が可能なのかを考えることが重要なポイントになるだろう。

ブレーメンの音楽隊(グリム童話)の内容は大体ご存じと思うが、サラリーマン社会をこの童話のアナロジーで要約すると(かなり乱暴だが)下記のようになる。

定年に達し「お前にはもう用はないよ。今までお疲れさま」ということで、それぞれ別の会社から放り出された4人が、ある魅力的な再就職先(= ブレーメンの音楽隊)を目指して旅をする。

その道すがら、悪だくみが功を奏して豪勢な暮らしを手に入れた人の家を発見する。4人の力を合わせたら妙なパワーが発揮され、その家を強奪することに成功。住んでみたらとても快適なので、当初の目的だったはずの“魅力的な再就職先”を目指すのを止めて、その家に4人で暮らしましたとさ。

という、何が言いたいのかよくわからん話になる(そもそもグリム童話は不思議で残酷な話が多い)。

童話は元来、絵本のような書籍のカタチをとっていたわけではなく、基本的には口承(こうしょう)文学の発展系ということもあり、極めて抽象度が高く、非現実的で、厳密で正確な描写を必要とせず、また表現もシンプルで覚えやすいものになっている。つまり、聴き手の想像力が広がりやすく、どんな短い童話(童話の大半はショートショートである)からでも何らかの教訓めいたものを抽出したくなるようにできている。ただし、解釈(意味)自体を取り違えてしまうことも多い。

ブレーメンの音楽隊では、上記の「4人の力を合わせたら妙なパワーが発揮され」に該当する部分がクライマックスだろう。原典では、ロバの上にイヌ、その上にネコ、そして一番上にオンドリが乗ることで奇妙な化け物として一体化し、一斉に“鳴く”ことで怪物のように振る舞い、悪人を威嚇し退散させることに成功するのだ。

ここから無理矢理ビジネスエッセンスを“妄想”してみると、

  1. 人には皆、ある協力関係が断ち切られ(= 解雇や定年退職など)ても、別の協力関係を探し求めて渡り歩く(歩かざるをえない)
  2. 協調行動は、それぞれが単独で動いて獲得した場合の利益の足し算よりも大きな掛け算になることがある
  3. 協調行動は、それを構成する要素(= ロバ、イヌ、ネコ、鳥)の多様性が高いほうがより強力なものになることがある
  4. 多様性により構成される協調行動は、単純で明確な戦略だけの相手(ブレーメンの音楽隊の場合は“悪人”がこれに該当)よりも強い

という主張ができる、と言えないこともない。

さて、協調行動(Concerted Action)といえば、誰もが思い出すのがボイド(Boids:bird-oidから来た造語)だろう。ムクドリやイワシなどの、群で行動する動物のパターンを解析し、コンピュータ上でシミュレーションできるようにクレイグ・レイノルズ(Craig Raynolds)が考案したアルゴリズムだ。たった3つのルールだけで優雅な群行動を再現できることが知られている。

  1. 個体が、他の個体が集まっている団体に吸い寄せられる
  2. 吸い寄せられた個体は、団体のスピードに合わせる
  3. 団体の中では、お互いの接触を避ける

それまでスピーディに飛び回っていた優秀なフリーランスといえども、大組織に就職すればその団体に合わせるように行動する。結果としてスピードは遅くなるが安全は確保される。

逆に、この団体から離脱することは、自由と危険を同時に獲得してしまうことになる(サラリーマンから見た時の起業という行為は、これに該当するだろう)。外資系を転々とするビジネスマンの場合は、特定の会社という群に所属したいわけではなく、“職種という群”に迎合することで安全を確保しようとしていると考えられる。

しかし、いずれの場合でも問題なのは、「何が安全かがよくわからなくなってきた」のが現代だ、ということだろう。年老いたロバであっても、そのあと30年も生きなければならないとなれば、それまでそこ(飼い主あるいは長年所属していた企業)に所属していたということ自体がリスクとなりうる。

生物がやっていることは、基本的には自分と種の保存のための行動のはずなので、このボイドも「群として行動して大きな生き物のように見せるのは生存戦略上優位である」との判断に基づく行為だろうと推測できる。つまり、ブレーメンの音楽隊と同じ話になる。

ただし、ブレーメンが「多様な種」であるのに対して、ボイドは「単一の種」であるところが決定的に違う。実は、ここが最も重要な論点だ。つまり、多様な種でボイドが実現できればそれが最も強力で安全なはずである、という推論が成立する可能性がある。

自動車が徘徊する街の中では、様々な「種」の協調行動が必要になる。そこには、免許を取ったばかりの運転手、一方通行の道を逆走してくる無能な自転車、スマホに夢中になっている歩行者、早く歩くことのできない老人、そこにクルマを止めることが迷惑であり危険でもあることに気がつかない“アタマの中が夜明け前な”ドライバー、自分がシケインになっているという自覚ゼロで並んで談笑しながらベビーカーを押す若い主婦2人組、いたるところに設置されている信号や横断歩道、頻繁に指示や規制が変わる車線、等々の多様な種が参加している。こんな連中の協調行動なのである。うまくいくわけがない。

これらをすべて同じ「人間」という単一の種による行動と考えるのは無理があるのだ。利害関係が異なる場合は、同じ人間といえども別の種として認識するのが現実的だ。公道に何らかの形で参加しているときの“立場”こそが種であり、それが動的に変化してしまうのが厄介な点でもある。

ディープラーニング系の技術を駆使しても演算が爆発しそうな気配があるくらい(特に自動運転の場合は、処理結果を返すスピード自体が命に関わることになる)だから、これを解決する手段が作れればさぞかし儲かることだろう。

パワフルな情報処理・演算能力に関して、欧米にキャッチアップするのが困難な日本がとるべき戦略としては、様々な要素の協調行動のデザインを検討する前に、その一つひとつの要素を動かしている理由そのものの協調行動(一種のメタ協調)、例えば国土交通省と経済産業省が仲良くしたくなるようなインセンティブを設計してしまった方が、「一見遠回りに見える近道」のような気がする。

つまり、自動運転社会を実現する時に重要なのは個々の要素の技術革新ではなく、ごく単純な制度設計の変革・改良だろうと推測できる。と同時に、これは既得権益を保持した人が死なない限りは実現困難だろう、ということも容易に想像できるわけである。

自動運転に話が逸れてしまったが、多様な「種」(フリーランスにはいろいろな人がいる)による協調行動と協調したくなるインセンティブを考えることが、その種の一角を占める自分にとって価値がある。そして、そのインセンティブを阻害する大きな要素の一つに既得権益がある、という話は共通と考えられる。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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