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専門性という売上げと教養という経費

専門性は、影響力を行使していくこと自体に価値があるが、教養はむしろそれをあからさまに起動させない姿勢の中に価値がある。また、専門性は社会の様々な問題を解決するために役立つ一方、教養はそれが役に立つような事態にならないように祈る態度に内在している。そして、専門性はカネになることが多いが、教養は経済問題とは距離を置こうとするだろう。

独立した教養学部が設置されている東大やICU(国際基督教大学)などを除けば、多くの大学では教養課程を経て専門課程に至るというコースが普通だろう。つまり教養と専門は対立する概念(反対語)である、と考えられないこともない。従って「専門(性)ってなんだろう」と考えるときに、その反対語の「教養」の意味を併せて検討してみるのも回り道としては悪くないかもしれない。

ある分野における専門家の専門性を礼賛する時に“教養”という言葉が登場することはないが、それを専門とはしない人の当該分野における技能などの高さについては教養(あるいは素養)がある、という言い方で賞賛される。

ピアニストがピアノを上手に弾けるのは当たり前(褒めたらむしろ失礼)だが、ごく普通のビジネスマンが、たまたまの機会にそこそこのピアノを披露したりすると「へええ、お前そんなことできるの?」ということになって、私たちは彼に対して“ある種の教養”を感じとることになる。

専門(性)は、それを起動させて外へ拡散させ、影響力を行使していくことに価値があるが、教養はむしろそれをあからさまに起動させない姿勢の中に価値がある。また、専門(性)は社会の様々な問題を解決するために役立つ一方、教養はそれが役に立つような事態にならないように祈る態度に内在している。専門(性)はカネになることが多いが、教養は経済問題とは距離を置こうとするだろう。

専門性が八面六臂の大活躍をする課題満載の社会を具体的にイメージすると「やっとチケットを入手することができたベルリンフィルのコンサートを満喫した帰り道に自動車事故を起こしたが、名医による救急医療で一命を取り留めた」みたいなケースになるだろうか(本当にありそうな話しだったりする)。

高い専門性は“特別な状況”で本領を発揮する。弁護士や医師などのように問題や課題を解決するための手段としては存在するが、出動しないに越したことはない専門性と、料理や芸術などのようにそれを享受することで豊かさや感動を獲得できる専門性は、それぞれが両極端に位置してはいるが、レベルの高さという意味では拮抗しているように見える。専門性による価値の変動幅(volatility)が大きい社会のことを世間は“先進国”と呼ぶのかもしれない。

一方、国民総幸福量(Gross National Happiness:GNH)で世界一を誇るブータン(と言っても、この調査自体がこの国の発案であり、人口100万人に満たない小国ではあるが)では、最近「信号機を撤去せよ」という国王からのお達しが出たという(養老孟司氏がNHKのラジオ番組で語っていたところによる)。

この国には昔から犬を鎖でつなぐ習慣がない。したがって、道路上の至る所で犬がのんびり休憩しているのがごく不通の光景だ。加えて、道路で寝ている犬をきちんと避けて運転する習慣が浸透していた。この「道路で寝ている犬をきちんと避けて運転する習慣」こそが教養にほかならない(注1)。

教養は、学歴や知識量などとは相関関係も因果関係もない。むしろ所作や態度・行動にその片鱗が現れる。つまり、どちらかといえば論理が優先する脳内よりは身体全体に宿る知(身体知)のような気がする。そこに「機械による論理」を実装した信号機が登場することで、教養だけで制御できなくなることを懸念した国王が信号機の撤去を命じたのだ(犬が信号を認識できないというだけの話しと言えばそれまでだが)。

信号を守ること自体が目的化してしまうと、横断歩道に近づいたら徐行するという本来の大原則(いついかなる場合でも歩行者は優先的に保護される)を忘れがちになってしまうことを見通していたのかもしれない。教養やマナーは、様々な社会的コストを劇的に下げ、可視化しにくい社会共通資本として振る舞う。

例年、富士山の初冠雪は9月下旬から10月上旬だが、この時期を越えると黒い裾野と白い頂上付近という、私たちがよくイメージする富士山に変身する。この富士山になぞらえると、黒い裾野が教養、白い頂上が専門性のように思える。教養の裾野が広くなければ白い頂上はありえない。つまり白い頂上は単独では存在できない。しかし白い頂上は“なくても構わない”という点に着目していただきたい。

零細企業の経営において、経費に「パレート分布」が適用できるとすると、人件費・家賃・税金・保険料という、全体の支出項目における20%程度の項目が支出の額の80%を占める(仕入原価がかなりの割合を占める業種を除く)ということになる。従ってこの4項目の支出を流動費化し、小さくできれば経営は健全化する。

家賃60万円の事務所から30万円の事務所に引っ越したとすると、30万円の経費削減ということになるが、これは30万円の“純利”に相当するので100万円程度の売上げに該当するとみなすこともできる(100万円には販売管理費、外注費、その他原価などが含まれている)。つまり、引っ越すだけで毎月100万円の売り上げが発生するのと同じ意味を持つ。

固定費をそのままにして売り上げをもっと上昇させようという会社経営が、専門性を高めて白い頂上を無理やり作ろうとする経営で、いたずらに売上増を狙わず、とりあえず30万円の経費をバッサリ切ろうとする経営が“黒い裾野だけでいいんじゃないの?”という教養に溢れた(=賢い)経営のように見える、というのは言い過ぎだろうか。

いずれにしても、専門性なるものに「良い」とか「悪い」といった評価を持ち込むのはなかなか難しい。

注1)
もっともブータンでも最近は先進国化が進むことで様々な問題が発生しつつあるようだ。
グローバル化に直面するブータンのGNH

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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