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一人で外で飯を食おう

「外食」という行為には、腹を満たすだけではないいろいろな側面がある。中でも、一人で外で飯を食うのは格別だ。一人での外食の楽しさや価値を何から例示しようかと考えてみたが、やはりそのとき食いたいものを好きなだけという「気楽さ」が筆頭だろう。そして、飲食店の客席には「反面教師」(要するにダメな客)が溢れている。なかなかに腹立たしいことも多々だったりするものの、彼らから何がどうダメなのかを学ぶことも外食の楽しみだ。

誰かと飯を食う、ということの意味を明確に示したエントリ(No.88 東京から仕事を獲得せよ)があったので、その前提となることをちょっとだけ書いておきたい。

一人で会社を回していると、いわゆる「忘年会」に声がかかったからといってお付き合いで多くの宴会に出ているヒマはない。社長の体は一つしかなく、社長がそれなりに手を動かさなければ仕事は進まないし手元に利益も残らないからだ。今年は、田舎に引っ越して2回目の年末ということもあって、打ち合わせを兼ねた少人数での食事が1回だけだった。まさに「年末の飲み会は1回のみかい?」という状況で懐にも肝臓にもありがたいことだった。

「外食」という行為には、腹を満たすだけではないいろいろな側面がある。中でも、一人で外で飯を食うのは格別だ。一人での外食の楽しさや価値を何から例示しようかと考えてみたが、やはり「気楽である」ということが筆頭だろう。そのときに自分が食いたいものを好きなだけ自分のペースで食べて飲んで1時間かからない、という食事のありようは同行者がいたら絶対にできることではない。まずは「何を食うか」というところから相談しなければならない。

会社員だった頃、昼飯に同僚と出かける、なんてこともあったものだが、何を食うかという意思決定プロセスに対するリテラシーが低すぎる人の存在に辟易してしまい、昼飯は一人で食うようになった。晩飯も、20代の頃から一人で外食という生活が続いている。もちろん、たまには誰かと食事をしたり宴会に出席したりするが、圧倒的に多いのが一人での食事だ。

特に焼肉なんかは、一人で行くのが一番だ。焼肉はそこそこ値が張るということもあるが、同行者がいると、食べるペース、飲むペース、好き嫌い、食べる量、などなど気を遣うことばかりだ。いい歳になれば血圧だの痛風だので食生活に制約があって、それを他人に提示することに躊躇がない人も多い(オレが食えないモノは注文するな、という主張でもある)。2人で行って1皿にカルビ7切れなんてのも、それなりにメンドクサイものだ。

席が空いているのに「一人ですが良いですか?」というと「予約で満席だ」とか「カウンターが空いてない」とか無理矢理な理由で入店拒否に遭うこともけっこうあるものだが、そういう店はそもそも(オッサンの)一人客を歓迎していないので行かなければ良いだけの話だ(メニューやオペレーションなど、高い確率で不満が残る結果となる)。迂闊なカップルなどよりは確実に時間当たり客単価は高いはずだが、そんなことを言っても仕方がない。入ってみたもののダメだった、よりは門前払いの方がはるかにマシなのだ。

「お店の人と話ができる」というのも一人の楽しさの一つだ。もちろん、店のスタイルやスタッフにもよるが、店の人と話ができないような店とは長い付き合いにはならない場合が多いものだ。店の人だけでなく、他の客と顔馴染みになったり、店の人に常連さんを紹介してもらったり、また、それがきっかけでどこかに遊びに行くようになったり、仕事に関係のある話につながったりすることもある。だたし、それが狙いなのではなく(狙いだとしたら貧乏くさすぎる)、たまたまご縁があっての結果なのだ。

飲食店の客席には「反面教師」(要するにダメな客)が溢れている。なかなかに腹立たしいことも多々だったりするものの、これをエンターテインメントと捉えて学ばないと飯が不味くなる一方なので観察し考察する。あの人たちはどうしてあんなふうな「(大人ともいえない)大人」になってしまったのだろう、あれで良いと思っているのだろうか、あんなことをして恥ずかしくないのはなぜなんだろうか、子供はあれを見て育つのだろうからダメの再生産ではないか、などと思い巡らせる。

特別なイベントなどでもない普段の居酒屋や焼鳥屋に子どもを連れてきたり、クルマで集まってきたり、ファミレスとは異なる酒を飲む大人が集まる空間であること(それを前提としたビジネスモデルでもある)を全く意識していない人は世の中にけっこういるものだ。外食といえばファミレスしか知らず、ファミレスで許されることならばどこでも許される、と思い込んで疑うことを知らないように見える。

ダメな客がどういう注文をするのか、というのも耳ダンボで注目だ。食べるモノはどういう生まれ育ちなのか、どんな家庭環境だったのかを色濃く反映する。以前に都内の某所で、田舎から東京に来てたった今着いた、というオジサンが「この居酒屋すげぇ! 塩辛、焼き鳥、冷奴、オレの好きなものが全部揃ってる!」と大きな声で言ってしまったのがカウンターの端まで聞こえてきて、ビールを吹いてしまったことがある。

店のことを少しでも考えたら、駐車場4台の焼き鳥屋にクルマ5台で5人で来て、各人ウーロン茶1杯と「やきとりお任せ10本セット」(それで1人前なんだが)を全員でシェアしてお終い、あとは延々ダべっている、なんてのは絶対にやってはいけないことの一つだと思うが(「串から外さないで」とも言いたくなるだろう。一生懸命刺したとか穴から冷めるとか、本質はそこではないのだ)、平気な人はけっこう存在する。

いい歳したオジサンが「ハイボールください」「ウイスキーはシングルとダブルがございますが?」「それ、値段一緒?」なんて馬鹿な質問をしてしまったのが聞こえてくる、なども醍醐味の一つだ。

鍋モノなんかも愉快なもので、鍋を自宅でちゃんと作ったことがない、そういう食事を家族でしなかった、って人はすぐに分かってしまう。だから、仕事がらみでの宴会での鍋は、いろいろとお里が知れてしまう危険がいっぱいな怖い食いモンなのだ。竹の筒を半分に割った器に入った鶏のつみれを竹筒ごと鍋に投入した(某有名私大卒)とか、軍鶏鍋を「ぐんどりなべ」と読んだ(別の某有名私大修士卒)とか、ま、勉強はできたのかもしれないがモノを知らないことがバレてしまうという話から、鍋を囲んでの食い方のマナー、育った家庭のすき焼き以外はすき焼きと認めない的な田舎モン丸出しの頑迷な話まで、鍋はいろいろと怖い。

さらに、男性の場合、屋内で飯を食うときは帽子を脱ぐということさえ知らない人がとても多いのにも驚かされる。野球帽を斜めにかぶったまま、ニットキャップをかぶったまま、中折れ帽の御仁も多い。本人、カッコつけてるつもりなんだろうが、単にマナーや常識に疎いだけ、とすぐにバレてしまう。コートやオーバーなどを脱がずに飲んでたり飯食ってたりする人も多い。ニット帽にモコモコのダウンジャケットのまま熱燗で湯豆腐とかあり得ないと思うのだが、、、。信頼するバーテンダーは「頭に大きな傷があるような場合でない限り、当店では男性には脱帽をお願いしております」とはっきり伝えている。

この手の食べる以前の常識のない振る舞いや、一歩進んで食うモノに対するリテラシーやセンスのなさ(注文の仕方ですぐ分かる。まともな店で真夏にカキフライなど)は、サラリーマンであれば「おっきな会社で安心してるんだろうなぁ」で済むことかもしれないが、零細企業の社長の場合、この「人生経験の欠落感」「考えずに年を取ってきた感」は洒落にならない。一緒に食事をして人脈を構築する、なんて話は論外だろう。この人とは飯を食いたくない、というのは一緒に仕事をしたくない、というのとほぼ同義となる。

最後に一つだけ付け足すと、大事なのは「周りの客が馬鹿に見えても(実際、たくさんいるものだが)偉そうな態度を取らない」ということだ。もし目に余るようだったら、注意したりせずに(それは店の役目だし下手をすれば喧嘩になる。店が注意しないということは、その店はそういう客を容認しているということでもある)サクッと会計を済ませて別の店で飲み直すのだ。そういう場からは、すっと離脱するのがポイントだ。これも、一人ならではの判断と行動といえるだろう。

蛇足)
外食といえば、けっこう前のことになるが、某チェーン(券売機ではないところ)で牛丼を食っていたら、塾帰りの小学生が入ってきて、腕組みをしながら口を尖んがらせて店のスタッフ相手に「んーー、で、このお店、お勧めは何?」と言ったのが忘れられない。明らかに自営業の父親が息子の教育に失敗したケースだ。「領収書、あて名は上でお願い」とか言いだしそうで怖い。「ダメの再生産」の好例でもある。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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