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ライドシェアはヒッチハイクになる?

改札が自動化されることで駅員の仕事が変わったように、自動運転車が普及すると、タクシードライバーの仕事は今の業務とは相当かけ離れた、たとえば観光ガイドのような仕事になる可能性が高い。ただ、よくよく考えてみると、教師にしても医師にしても調理師にしても、すべての仕事は「ガイド」と言えないこともない。自動化が進むことで、人の仕事が本質的にはガイドであることがより鮮明になってくると同時に、人間だからこそ可能なガイドができないと「AIに任せておけ」となってしまう可能性も否定できない。

自動運転の論点』というメディアを創刊した。筆者自身クルマの運転は嫌いなほうではないが、このメディアはそのようなクルマ好きからはあえてそっぽを向かれるように作るつもりだ。クルマそのものは補助線として使っているだけで、論点の中核は、科学・技術・工学と社会のあり方だ。

価値中立であると訴え続けてきた科学自身がのっぴきならないところまで追い込まれてきた状況の中で、私たち個人がどう対応していくべきなのか、自分の働き方をどう変えていくべきかを考える、かなり大げさでマジメな(?)メディアだと考えていただけるとありがたい。

さて、大衆車の大量生産という意味では、1908年のT型フォード(Ford Model T)販売という社会現象が過去に大きなインパクトを与えているが、自動車そのものはカール・ベンツ(Karl Friedrich Benz)が1885年に発明した(ただし、それ以前にも似たようなものは存在した)。自転車の車輪を一つ増やしたような三輪車に4ストロークのガソリンエンジンを搭載した「パテント・モトールヴァーゲン」というクルマが現代まで続く自動車の嚆矢(archetype)ということになっている。

人類は産業革命以降、様々な機械を発明してきたが、自動車ほど“個人に”インパクトを与えたものは空前絶後だろう。今現在、世界中では13億台以上の自動車が走っているが、そのおよそ7割は自家用車である。つまり自動車の自動車たる所以は、トラックやバスなどの業務用車両ではなく“自家用であること”にある。

さほど安価ではない機械がこれだけ自家用として所有・活用されてきたのは、好きなときに、極めて手軽に、予想以上に遠くまで、そして速く移動できる“自由”を獲得できたからだと想像できる。半面、人間の手に余るパワーを扱うこと、また、あまりにも安易に免許が取得できること等に起因する交通事故という社会的損害、そして1970年代から続く環境問題等は、自動車の誕生から100年以上経過した今でも払拭されていない。

そもそも人には自動車のパワーを自在に扱えるほどの身体能力がないことは明白なのだが、もしもそのためのトレーニングが義務化されていたとしたら、現在のような産業規模には到底到達していないであろうこともまた事実だろう。

四輪車のそれぞれのタイヤ1本は、わずかハガキ1枚程度の面積で路面と接地しているに過ぎない(タイヤの扁平率が極端に低い場合を除く)。たったハガキ4枚程度の面積(およそ600平方センチメートル)の上で1トン近い鉄の塊が高速で滑っている状態が“ドライブ”だとすれば、クルマなど怖くて運転できないと思うのが普通だ(普通免許ってのはそういう意味か?)。

また、筆者の友人で「対向車が容易にセンターラインを超えてこちらに飛び込んでくる可能性があることを想像しただけで、怖くてクルマに乗れない」という奴がいたが、この発言、至極まっとうだろう。そんなことありえないと信じて運転している大半のドライバーの感覚のほうが狂っているはずである。

初心者は自動車の運転からの入力情報を視覚に頼る傾向が強いが、ベテランになると視覚情報の重要性は若干低下し、タイヤ・ステアリング・シート等を通じて体全体で受け止める感性入力に敏感になる。ただし何万km走ろうと、この入力情報に学ぶ姿勢がないドライバーの操縦能力が深まることはない。初心者は車の角をぶつけないようにするための車両感覚を視覚に頼るが、熟練ドライバーは4本のタイヤがそれぞれどこでどんな仕事をしているかを体性感覚で理解しているはずである。

しかし、大半のクルマはドライバーの身体知を奪う方向、すなわちより便利で乗り心地が良い方向にしか進化したことがない。クッションの効いた分厚いシート、柔らかいラバーブッシュを利用したサスペンション、柔らかいコンパウンドのタイヤ、AT(オートマチック)で勝手に行われるギアシフトなどで、情報を遮断すればするほど乗り心地は良くなり、スポーティーさは失われる。

そして、人が運転に必要な判断材料として五感で直接受け止めていた外部からの入力情報を、センサー/コンピュータ(アルゴリズム)/ネットワーク/アクチュエータに置き換えていけば、自動運転車が出来上がる。残念ながら、トレーニングしようとしない人間の身体能力よりはこちらのほうが圧倒的に信頼できる。

自動運転はレベル0から4(または5)まで線形に発展していくかのように説明されることが多いが、レベル3と4の間に決定的な分岐点がある。レベル3まではドライバーの自由意志がある程度尊重されているが、レベル4はドライバー自体が不要なので自家用でなければならない必然性も希薄になる。

また形状が自動車のようなカプセル(数人が過ごせる箱の下に4つのタイヤが装着されている乗り物)でなければならない必然性もない。ドライバーが不在(ドライバーだった人は単なる乗客になる)なのだから、ドライバーの自由意思も消滅する(乗客としての自由はまた別の議論になる)。レベルの議論が面倒なのは、1台のクルマが状況に応じてレベル0から5までを駆け上ったり下ったりするからでもある。

さて、タクシーの規制緩和は小泉政権時の2002年に実施された(この政府が行った様々な規制緩和が、負の遺産としてあちこちに出現しているのはご承知の通り)。当然、タクシー業界の競争は激化(一般社団法人全国ハイヤー・タクシー連合会「タクシー事業の現状」)したわけだが、利用者として顕著に感じたのは利便性の向上よりは、基本的なトレーニングを受けないままの素人が路上に大量に出現したというドライバークオリティの低下だった。サービスがある種の専門性に対する対価の支払いだと考えると、その支払いに価するドライバーが激減していることは間違いない。

昨今はカーナビの実装が当たり前になりつつあるので、基本的な操縦技術や安全技術もさることながら、目的地までの道順をカーナビ情報に完全に依存するタクシードライバーももはや稀ではない。こうなってくると、タクシーがAIを搭載した自動運転車に置き換わるのは時間の問題なのかもしれない(カーナビ自体がAIだと言えないこともない)。

日本国内では、一般のドライバーが自分のクルマを使って有料で人を運ぶ、いわゆるライドシェアは、一部の特区を除き道路交通法で禁止されているが、普通に考えればタクシードライバーの数よりは、そのスキルを超える技術を持つ一般ドライバーのほうが絶対数では多いはずだ。

例えば、自宅周辺であれば、その地に住んでいる一般ドライバーのほうが道や道路状況に詳しい、ということが多いにありうるので、ドライビングスキルが高い人であれば、タクシードライバーよりも安全だろう。こうなってくると、もはやタクシー会社は不要である。ライドシェアのほうが安全で早く、しかも安い。

ただし、そのためにはいくつかの新しい制度設計が必要になる。プライオリティの高いものから羅列すると下記のようになるだろうか。

1)安全はすべてに優先する
安全確保のために、ドライバーの運転技術とモラルについてリアルタイムでチェックする必要がある。例えば、飲酒運転がそもそも違法であるように、睡眠不足と判断されたドライバーはその時間帯だけライドシェアへの参入資格を剥奪される、ということになるだろうし、厳格な資格審査と走行実績が必要になり、かつ免許の有効期限は長くても1年、そして資格には明確なクラス分けという概念がペナルティとセットで導入される。これは、自家用車といえども運転免許証がさらに細かく区分されて付与されるきっかけになるはずで、「ゴールド免許」といった無意味な区分は廃止される。このあたりは国家(国土交通省と警察庁など)が認証局として介入したほうが合理的だろう。

2)マイカーがライドシェア資格に適合している必要がある
例えば、燃費が30km/l未満の自動車にはライドシェアは認められない、といったルールが策定されるはずだ。ライドシェアに値しないクルマは、その趣味性に向かって突っ走るしかなくなるのでいま以上に高額になるが、ライドシェア適合車種は手頃で魅力的なクルマが大量に生産されるようになるだろう。

3)ドライバーには総合的な能力が求められる
例えば、顧客に対するホスピタリティも能力としてカウントされる。スキルの高いドライバーは個人事業主になったほうが儲かるはずなので、長期的には現在のような形態のタクシー会社は消滅し、ドライバーの数だけ会社がある、という状態になるだろう。クルマの3大原則「走る・止まる・曲がる」を全く感じさせないドライブが出来るドライバーに軍配があがる。つまり走ってる感じがしないし、止まったのかどうかもわからないし、いつ曲がったのかもわからないけど、なんだか早く到着した、という体験を提供できるかどうかが重要になる。このスキルは、自動運転車が得意とするところになるはずだから、顧客は優れたドライビングにではなくホスピタリティに対して対価を支払うようになるだろう。ドライバーは最終的には単なるガイドになるはずだから、個人事業主としてタクシーを運転し続けたい人は、さっさと観光地に移住するのが得策である(競争は激化するだろうが)。

ところで、GoogleやAmazonのクラウドサービスがなぜあんなに安いのかというと、自社のサービスのために使っている固定資産の余剰部分を解放しているに過ぎないからだ。同じことがライドシェアにも言える。つまり、自分がいる場所にクルマを呼びつける時代が終了し、たまたま同じ方向に行こうとしているクルマと人が、空いているシートをシェアする、ということになるとお互いのコストは最小化される。

「余っているリソースを使え」が大原則ということだ。ある目的地に向かい普通に走っているクルマと、その方向に行きたいと思っている乗客を最適マッチングできるプラットフォームがあれば、自家用車だったクルマがその時だけいきなりタクシーに変化するのが最も割安になる。

なんのことはない、これは単なるヒッチハイクである。ライドシェアとは最終的にはヒッチハイクの制度化・合法化になるだろう。同じ時間に同じ方向に行こうとしている人は利害や趣味が一致している可能性が高いので、ドライバーとパッセンジャーが仲良くなるきっかけになるかもしれない。

ここに至って人間関係資本が豊かになる、ということも想定できるので、新しい制度に伴うライドシェアにふさわしいクルマと資格を自家用として所有することには案外大きな意味が発生するのかもしれないし、カーシェアリングよりもかなり合理的と思われる。

参考文献:
・『ドライビング・メカニズム- 運転の「上手」「ヘタ」を科学する』 黒沢元治(2000年) 勁草書房
・『モータリゼーションの世紀――T型フォードから電気自動車へ』 鈴木直次(2016年) 岩波書店
書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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