地方自治法は、地域(社会)と日本政府(国家)をつなぐ接点として、日本国憲法第92条(地方公共団体の組織及び運営に関する事項は地方自治の本旨に基いて法律でこれを定める)に基づき、1947年5月3日に施行された。以降この法律は、改定に次ぐ改定が続くことになるのだが、1999年の改定(機関委任事務制度の廃止等)で自治体が国家の下請け機関ではないことが名目上明記され、その自主管理能力が問われ始めたあたりが最大の転機だろう。
財源としての地方/特別交付税は、相変わらず国が一定の裁量権を保持しているので、自主的な運営ができる状態とは言い難いのもまた事実ではあるが、少なくとも高度成長期まではこの手法は曲がりなりにも機能していた。しかし、財政が90年代に破綻し、その再建の先送りがスタートすると同時に、地方自治体は自主財源を確保していく能力を磨かねばならない局面に追い込まれ始めた。
日本という国自体が世界から“課題先進国”と揶揄されている中で、地域がその豊かさを持続・発展させていくのは容易ではない。住民や地域の民間企業との協力体制なくしてはその展望が開けるはずもないのだが、一般に地域住民は財政には無関心だし、儲かるかどうかわからない未経験なことなどやりたくないだろう。東京資本があちこちにインストールされて便利になっているのも確かなので、なぜそんなに焦らなければならないのかを理解することにさえ興味がないかもしれない。
「地域に移住して活躍する若い起業家が楽しそうに仕事をしている様子」を紹介するメディアは山ほどあるが、おそらくこのサンプルに代表性はない。地元は事態に無関心であり、実態はもっと深刻なはずである。地域を活性化(注1)するときに登場が望まれる人物の定番が「よそ物、バカ者、若者」だというのはもはや語り尽くされた感があるが、こういう逸材の登場は極めて偶発的なもので、オーガニックに育成できるわけでもない。ましてやボランティアを戦力としてカウントするのは無謀に過ぎる。そこで“当該地域の出身者を活用できないか”というアイデアが浮かぶことになる。ただし少々問題がある。
「人と仲良くしたい時、あるいは会議等で初めての人に会った時には、まずはその人との共通点を探せ」は、コミュニケーションを円滑にするための便宜的な方法としての第一歩だ。中でも故郷に対する想いは、他に考えられる様々な他人との共通点とは質的に異なる微妙かつ複雑な感情である。さらに、そこにいつまでいたか、どういう印象の思い出が残っているか、その故郷にまだ親がいるのか、その親は元気なのか、あるいは兄弟・親戚がいるか、友達がいるか、外形的に土地や家屋や校舎が残っているか、といったことによって、同じ地域の出身者であっても想いの熱量はまちまちであろう。また故郷とは、自らが積極的に放棄した地域のことでもあるので、そこで頑張っている人に対してある種の負い目を感じている人も多いはずだ。
筆者は新潟県・上越市(昭和46年:1971年に直江津市と高田市が合併して誕生)に生まれた。小学校6年生の時に、当時の校長に「(市の広報誌に掲載するので)上越市の誕生に期待するという作文をしろ」と強要され、無難な文章を作成した記憶がある。18歳までそこで過ごした後に上京し、横浜市民として40年近くを過ごしているが、自分が神奈川県民・横浜市民だと思ったことは一度もない。何年過ごしてもアウェイ(away:敵地)なのだ。多分死ぬまで新潟県人なのだと思う。
では、帰りたいかと言われれば「滅相もない」と答えるだろう。生活上の理由以上に心情的に戻りたくない。たまに帰省しても、1泊以上の滞在は単なる苦痛である。すでにそこに自分の“居場所”がないのだ。ニュアンスは若干異なるはずだが、やはり「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」(室生犀星)なのである。
故郷に対する複雑な想いの最大の理由は、自らそれを積極的に選んだわけではないというところに起因する。親や生まれた場所は、自分の好き嫌いで選んだわけではない。大げさに言えば受け入れざるをえない宿命でもある(だんだん松本清張の「砂の器」みたいな話になってきたぞ)。故郷は、必ずや懐かしい古き良き時代だった時間と場所であったという形で思い起こされるとは限らない。
地方自治体、特に市区町村が、安い割に高度な技能を手に入れる確実な方法の一つとして、すでに別の地域で働いている当該地域出身者の活用を思い付いたとしても、以上のような理由から、郷土愛のようなものにつけ込むのは意外と難しく、郷土ということで一枚岩になれる訳でもないであろうと予想される。
そこで、地元出身校に対するロイヤリティの活用を検討してみよう。大学は基本的に全国区なのと人数が多すぎることから、まとまる集団にはならない。小・中学校はもはや忘却の彼方でもあり、影響を及ぼせる商圏としては狭すぎる。そう考えると、どうやら高校が有望ではないかと思えてくる。
ひとつの都道府県は、大抵古くからあるいくつかの広域行政区域(例えば島根県の場合だと出雲・石見・隠岐の3区域)で構成されることが多く、それぞれの土地に有力な高校があったはずだ。市役所や商工会議所よりは、(高校の)校友会のような組織から声がかかるほうが強いインセンティブになる可能性が高い。そう考えると、高校の校友会を法人化(合同会社がいいだろう)するのが地域活性化の第一歩なのではないか、という結論になる。
ただしこれも条件がある。その校友会組織が地元から仕事を獲得していくには、当該高校がリーチできる範囲に、ある程度の市場(消費者)がなければならない。もちろん、東京を筆頭に、他の地域からの売上、あるいは海外からの売上も当然狙っていかねばならないが、座布団になる売上の確保のためには、当該地域の人口が一定数を超えていることが前提条件になるだろう。しかし、全国的に知名度が高くとも人口が10万人に満たない地域は想像以上に多い。これらの地域には、校友会ソリューション以外の方法が必要になるのかもしれない。
地域コミュニティの現場には、宿命を甘んじて受け入れた人と積極的に受け入れている人が入り混じっている。そして山や川などの視覚的な範囲で区切られ、寺社の鐘の音を中心に集まってきた集団なので、地場が与えてくれるポテンシャルと一体で語られるべき存在だ。
そのような、選択の余地がなかったコミュニティ(community)に、創作的なアソシエーション(association)をインストールしていこうとする動きこそが“地域創生”であろう。この2つはそもそもは対立する概念(=対義語)であることに留意していただきたい。一部の方には、ゲマインシャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)の違いと言った方がわかりやすいかもしれない。
重要なのは、この2つをあえて対立する概念として捉えず、融合させていく(どちらかがどちらかに溶け込んで判別不能になる)プロセスに意味があるということだ。そしてこれは、あらかじめ長期戦になることが確定している案件であることに留意しておきたい。
例えば、平成の大合併で行政区分の名称変更が行われた地域において、その新しい地名が本当に地元に馴染むようになるのは、名称変更後に当該地域で生まれた人が働き盛りになった時だろう。つまり20~30年くらいを要する。自分の意思と無関係に地名が変わってしまった人にとって、その違和感は生涯残り、新しい名称に馴染むことなく死んでいくはずである。
どんな地名にも歴史的必然性がある。労働生産性とか行政の無駄を省こうとする“効率化”とは相性が悪い。古くから存在していた地名は小学校の名称として残っていることが多いが、当の小学校自体が廃校に追い込まれている現状からしても、地域コミュニティ/アソシエーション化活動のハブにはなり得ない。高校の校友会ならなんとかなるのではないか、というのが筆者の仮説である。
アソシエーションは共通の関心・目的などで集まった機能的集団であり、法人格(人でないにもかかわらず人のような権利や義務の主体となることが認められた集団)が与えられることが多い(典型的で判りやすいアソシエーションの代表格が宗教法人だろうか)。また、当事者のコミュニティへの参加は時間的には“必ず遅れる”という原則がある。出来上がったものにあとから便乗せざるをえないのがコミュニティの宿命、ということでもある。
これに比較すると、アソシエーションは参加よりは参画、すなわち当初の段階からコミットするチャンスがあるので、自分事として捉えやすい。アソシエーションを作るアプローチでコミュニティを変えていこう、という運動が必要なのだ。アソシエーション運動の達成は、コミュニティのブランド化を意味する。ブランドには経済的価値が必ず伴うので、結果的に、既存の産業の単価をあげることも含めた新産業の創出に寄与するだろう。
「参加と参画」は「安心と安全」あるいは「信頼と信用」同様に、似たような言葉だと感じてしまうが、意味合いは相当異なる、もしくは無関係くらいに考えておくべきで、特に参加・参画には、人がグループを作っていく時のネイティブな気持ちに直接響くデリケートな違いがあることに留意したい。そのデリケートさを最低でも30年以上維持していかねばならない、という覚悟が求められていたりするわけだ。
筆者は業務上の必要から、複数のメーリングリストを主宰しているが、もっとも気を遣うのは、そのメーリングリストを立ち上げた時には参画していなかった人をあとから追加(これが“参加”に該当する)する場合である。転校生に居心地の悪さを感じさせたくない教員の心境がこれに近いのかもしれない。
注1)
「地域活性化」とはどのような状態を指すのかについては様々な識者による様々な文献があるが、なんのことはない“もっと儲けること”に尽きるだろう。それができれば、すべての問題は解決するのであり、それができないから苦労しているわけだ。ただ非市場経済(非課税の互恵的な取引)について面白い習慣がある地域が存在する可能性があり、これは実質的な売上とみなすことができる。“贈与”という、人が行う根源的な価値を見直す機会にもなり、現在の物流(特に宅配便)にまつわる諸問題を解決する手段になりうる。宅配ボックスという、誰もが思いつくであろう豪速球を投げる前に、荷物を受け取る地域の信頼関係を組み直すだけで再配達を皆無にする方法が見えてくるはずだ。
- 書名
- 会社をつくれば自由になれる
- 出版社
- インプレス/ミシマ社
- 著者名
- 竹田茂
- 単行本
- 232ページ
- 価格
- 1,600円(+税)
- ISBN
- 4295003026
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