110

「みんなちがって、みんないい。」

様々な仕事の自動化が進むと、私たちは自分の個性を生かす作業に専念できるようになる。また、その個性の価値は、影響力を及ぼす範囲が広いほど高いというわけでもない。個性は、それを必要としている近傍にいる人にだけ適用されれば十分である。長年サラリーマンしか経験していないあなたにも個性はある(たぶん)。そして、その個性を小さな範囲で行使するだけで、メシは十分食えるのだ。

私たちはずいぶん長い間、自動車、自動ドア、全自動洗濯機など、自動(automatic)の恩恵に与ってきた。自動化の特徴は、誰がやっても同じ結果になる、という点にある。そのような仕事は自分でやらなくても良くなる、ということでもある。自動化に業務を委託してきたという言い方もできる。ただ、今までの自動化は身体機能の拡張(enhance)に止まっていた。この流れが思考(ただし論理的思考に限定される)にまで及び始めたのが人工知能、と言っていいだろう。

「人工知能が仕事を奪っても、クリエイティブな仕事は残る」という言い方は少々誤解を招く。そもそも仕事なるものは、どんなものであれクリエイティブだ。むしろここでは「個性」という言葉を持ち出すのが正しい。誰がやっても同じ結果になる仕事は全部人工知能に丸投げできる、と肯定的に捉えれば、残る仕事は“個性を生かすこととができる作業”になるはずだ。

私たちはとっては、誰がやっても同じ結果になる仕事から解放され、自分らしさが生かせる仕事だけに専念できる時代がやってきた、ということだ。人工知能に丸投げする仕事がエコシステム(お金がやりとりされてビジネス的に共存できる状況)であるという前提が保証されるなら、私たちは自分がやりたいこと、得意なことだけに専念すればよく、それは結果として個性的な行為ということになるだろう。

しかし、人がやるべき業務なのかそうでないのかを単純に区分することは不可能だ。例えば融資ならば、300万円未満の小口融資なら人工知能に丸投げしてしまえばいいが、それなりの金額になる場合は個性と個性のぶつかり合いで物事が決まるはずである。従って「融資業務は人工知能が行うので仕事としてはなくなる」というのはかなり乱暴な議論だ。

むしろ融資のような業務の場合、事前審査などの荒っぽい処理で済む部分は人工知能が実施してくれるので、融資担当者はじっくりと人を観察したり懇談したりする時間が持てる、ということだろう。したがって「(人工知能で)なくなる仕事、残る仕事」という職種による切り分けはそもそもがナンセンスだと考えていい。自動販売機と喫茶店は両立する。

また、「地域のIT化」というと、何らかの情報武装が必要なのかと身構えてしまいがちだが、これは大きな間違いである。情報などという“よくわからないもの”の処理はIT業者に丸投げしてください、IT業者が低価格で引き受けて上手くやりますから、あなたは自分のやりたいことに専念してください(これが“個性を生かす”ということになるはず)ということが「地域のIT化」の本質である。

ITでコストダウンを図るとか、ITで売上増を目指すなどと考える前に、まずはITを使うことは「効果的な手抜きに過ぎない」と単純に理解しておくのが良い(この“手抜き”は1979年に発表・発売された VisiCalcがその嚆矢だろう。Apple II向けに発売されたこの表計算ソフトは、それまで手作業で実施していた四則演算を使った単純集計作業から私たちを解放してくれた)。

個性を生かした作業で真っ先に思い出すのが、中学時代の美術の授業だ。他の教科は得点差による明確な序列化が可能だが、美術だけは違う。確かにみんなから絵が上手いと称賛される同級生はいたし、誰の目にも荒唐無稽な駄作としか思えないものもあったのは事実だが、美術のいいところは“正解が一意に決まらない”という点にある。むしろ生徒の数だけ正解がある、と言い張れる。

これは、アートというものを分かりにくくしているという意味においては弱点でもあるのだが、制作した本人に自己肯定感(=これでいいのだ)を与えてくれる。自己肯定感を通じて表現されたものは、世界を(自分なりに)肯定したものでもある。結果として、その人の人生は希望が持てるものになる。アートは、金子 みすゞに言われるまでもなく「みんなちがって、みんないい」ものだ(注1)。

アートとデザインに明確な区別をつけることにあまり意味はないが、あえて分かりやすく差別化するなら、デザインが最終的にはコピー可能なソリューションとして提供されるのに対して、アートは再現性が劣悪ではあるが、極めて個性的でかけがえのないものになりやすい、ということだろう。

科学者からすれば個性など無視しても構わない小さな差異に過ぎないし、そうしなければそもそも科学自体が成立しない。しかし私たち人間は、その小さな差異としての個性に、下手をすると命がけでこだわることが許されている存在なのだと思う。

医学が科学になりきれないのは、この小さな個性(個体差)が大きなインパクトになっているからだろう。他人の趣味は、それが深くなればなるほど他人からは理解不能な行為として観察されてしまうが、本人にとっては比較しにくい絶対的な価値として自分に自信を与えるものになっているのと同じである。

どんなに美味いコンビニ弁当でも、同じものを3回続けて食べることはできない。舌が妙にしびれてくる。味にブレがないからだ。自覚することが難しい小さなブレ(差異)でさえ、私たち人間は敏感に感じとることができる。特に指先と唇には神経が集中している(生命の安全を維持するために進化したと思われる)ので、自分が自覚する以上に差異には敏感である。

一方で道具は、体に馴染んでくるとその存在感が希薄になる。普段、ごく普通の乗用車しか運転したことのないドライバーは、巨大なダンプカーを縦横無尽に操る運転手を見て、掛け値無しに「すごいな」と感心してしまうが、当の運転手にはそれほど大きなものを動かしているという実感はない。身体感覚がその巨大なダンプカーと一体化すると、とても小さなものに感じられるのである。

馴れとは恐ろしいものだが、道具の存在感が小さくなればなるほど、それは彼の身体の一部、すなわち個性として馴染んだことを示すので、右リアタイヤの空気が少し足りない、といった、普通の人には全くわからない感覚や小さな差異でさえ感じ取ることができるようになる。個性とはそういうものだろう。

また個性は、能力とは基本的に無関係だが、強いていうなら「接した相手が何に困っているか」を察することができる能力、とだけは言えるようにも思う。その困っていることに対して、どう対応できるか、あるいは対応しないのか、といった判断と振る舞いを含めての距離感が個性というものの大きな側面であろう。

 

注1 )
金子 みすゞ(1903-1930年)の代表作の一つが下記の「私と小鳥と鈴と」である。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速く(はやく)は走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんの唄(うた)は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

参考文献:
『こだまでしょうか、いいえ、誰でも。– 金子 みすゞ詩集百選』 (2011)ミヤオビパブリッシング