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「主義(-ism)」に捉われるとロクなことにならない

「働き方改革」の最大の弱点は、雇用原理主義のようなものから逸脱するわけにはいかないというドグマに捉われていることにある。このドグマ自体が間違っているので「プロフェッショナル人材にも残業時間の上限を」といった意味不明な議論がゾンビのように次から次に飛び出してくる。人にとっての働き方としての正しいドグマとは、自給自足を前提とした社会的協力以外にはない。そして、自給自足の第一歩こそが起業に他ならない。

42/54は「ポスト資本主義時代の働き方」を考えるサイトなのだが、実際のところ私たちはそれがどんなものなのかを正確に予測できているわけではない(というかよくわからない)。資本主義(正確には市場拡大を前提とする資本主義)の次には何か別のものが来るだろう、くらいの軽い気持ちでこの言葉を使っているに過ぎない。

筆者自身が(いわゆる)高度成長期の申し子だったことが避けられない事実とすれば、単なる老化現象(人は歳を重ねるほど天下国家のあるべき姿を自分の過去の過ちを脇に置いて語りたがる)の可能性も否定できない。

ただし、この「主義(-ism)」なるものの最大の弱点は、それを標榜すること自体が目的になりがちだという点にある。自分自身の行動原理(principle)、つまり行動の指針になる原則に自らが縛られてしまうことで軌道修正がしにくくなり、事後的な結果オーライを許さない厳しさが発生してしまうことがある。

大企業に勤務する社員の80%以上が社内コミュニケーションを円滑にすること自体が仕事になってしまい、外部に何もアウトプットしなくなるように、手段が目的化してしまう、という普段私たちが日常生活で頻繁に経験していることの一つがここでも出現する。

加えて言えば、何らかの“主義”で国全体がまとまってしまった時には多くの場合、とんでもない事態に陥るということを私たちは目の当たりにしてきた。ただ、自分自身を主義(-ism)で縛ると、それはそれで気持ちが落ち着く、という効能もある。それが言語化できているものでなくても、自分には首尾一貫した主張があるという妙な自信が生活に安定感を与えるということもあるのだろう。

しかし、これらはどうでもいいことである。むしろ百害あって一利なしだ。例えば、政府が推進する働き方改革の最大の弱点は、雇用原理主義のようなものから逸脱するわけにはいかないというドグマ(dogma:教義)に捉われていることにある。その結果、「プロフェッショナル人材(なんだかすごい日本語だ)にも残業時間の上限を」といった意味不明な議論をパッチワークのように次から次と継ぎ当てていかないと論理的整合性が取れなくなる。

そもそものドグマが間違っているのだから、その上に何を積み重ねようとツギハギだらけの妙なものしか出来上がらないのは自然の摂理であろう。外部からは、必死でモグラ叩きをやっているようにも見える。情勢に合わなくなってしまった選挙公約を遵守したことによる悲劇、そして公約自体を改良しようとして反対勢力に拒まれる悲劇ともよく似ている。人にとっての働き方としての正しいドグマとは、自給自足を前提とした社会的協力以外にはないはずである。

議論の相手から何らかの主義が差し出されると、こちらとしても対抗策としては主義を持ち出さざるをえない。これは、高齢者コミュニティで頻繁に出現する病気自慢と一緒である。「俺ってこんなすごい病気なんだけど、どうよ?」「何を抜かす。俺のこの病気こそ云々」という馬鹿馬鹿しい会話と大差ない。そんなもん自慢してどうする。

自分が信じる何らかの主義の主張自体がある種の病気なのだ、と自覚しよう。むろん病気なのだからそれを他人に強要してはいけない。「俺はラジコンを飛ばすのが趣味だから、お前も飛ばせ」と言われているのと大差ない(余計なお世話でございます)。

主義というとちょっとカッコイイし、知的な雰囲気を醸し出すにはうってつけなので、例えば過去の様々な主義主張を分析した論考を展開している人というのは妙にアタマが良さそうに見えるものだ。しかし、何を隠そうこれは趣味と同じレベルの話だ。ラジコンとカメラはどっちが偉いかという議論と大同小異である。

「反知性主義とは何か」ということで侃々諤々の議論をしている連中に何ら知性が感じられないのとも同じである。本当の知性とは、あまり出しゃばることもなく、厚顔無恥とは対極にある静かな存在だろう。

主義主張で唯一意味があるのは憲法だろう。憲法自体は政府に対する命令だが、それは国民の国に対する命令でもあり主義主張だと言っていい。日本国憲法の一丁目1番地は憲法69条でも7条でもなく13条である。憲法13条は「すべて国民は個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と主張している。

これ自体わかりやすい条文だが、もっと噛み砕いて言えば「みんなに迷惑をかけないのであれば、俺たち個人として尊重されていることになってるのでそこんとこよろしくね。そして誰にでも幸福を追求する権利はあるらしいよ。ただし幸福になれることが保証されているわけではないことくらいはわかっているよ」ということだ。いうまでもなくこれは日本国憲法の三原則(平和“主義”、国民主権、そして基本的人権の尊重)における「基本的人権の尊重」に該当する部分である。

基本的人権は、自由権(思想・表現・職業選択・学問・宗教の自由)、平等権(差別されない)、社会権(教育を受ける権利)、参政権(多くの場合選挙権)、請求権(裁判を受けられる)、あるいは環境権などで構成されているが、最も重要なのはやはり自由権であろう。人間が生まれながらに持っている人間らしく生きる権利は、この自由権に代表されている。

働き方改革がおかしいのはこの憲法13条に代表される基本原則を逸脱していることに被雇用者も含め無頓着になっていることだろう。「プレミアムフライデー」なんてものまで強要されてようやく「なんかヘンだな」ということに気がつくことになる。

これは政府がおかしいのではなく、資本主義がおかしいのでもなく、「雇用という制度」に根本的な問題があるのだ。そして、そのおかしさは“正規雇用/非正規雇用”という不思議な言葉の使い方に端を発し、最終的には派遣労働という、人権がむしろ蹂躙されている労働のあり方に至って、ようやく「これって基本的人権が尊重されているのだろうか」という話になるわけだ。

人を積極的に派遣労働に仕向ける制度が充実しているという意味において、日本はむしろ古典的な社会主義国に近いのは周知の事実である。また、それを望む国民性のようなものが存在することも、自分の周辺を見ているだけでつぶさに感じることができる。

手厚い福祉(e.g.北欧に代表されるノルディックモデル)や無料の医療制度に守られている国(e.g.英国)であれば、定年退職後はまさに悠々自適な生活が送れるだろう。しかし日本は、そのような先を見通した深謀遠慮を施さずに、その場しのぎで運営されてきた残念な国である。よほど恵まれた人でない限り、死ぬまで働く必要がある。

「正規雇用&低福祉(特に教育と医療は劣悪だ)が王様」という文化を引きずったまま、文明の力でいたずらに寿命を引き延ばしても悲劇しかもたらさないであろう。とりあえず、会社を作って自衛するしかないのである。

そして、定年起業には「あまり、時間がない」という最大の弱点がある。長くても(経営できる時間は)30年が限度だろう。55歳くらいからの30年など、小学校の6年間程度の長さにしか感じられないはずだ。主義主張のことで他人と議論している時間的余裕はない。自分が信じているのと同様に、いかに受け入れ難い主義主張であっても相手はそれを信じているのだ。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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