「8大学工学部を中心とした工学における教育プログラムに関する検討」においては工学を次のように定義している。
「工学とは、数学と自然科学を基礎とし、ときには人文社会科学の知見を用いて、公共の安全、健康、福祉のために有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問である。工学は、その目的を達成するために、新知識を求め、統合し、応用するばかりでなく、対象の広がりに応じてその領域を拡大し、周辺分野の学問と連携を保ちながら発展する。また、工学は地球規模での人間の福祉に対する寄与によってその価値が判断される。」(原文へ)
「工学を定義する」と銘打った上でこの文章が展開されているのだが、これは工学の役割と目的、および学問の存続に関する希望的観測を述べているだけで、定義になっていない(>大丈夫か? 8大学工学部)。筆者なりにもう少し簡単に工学をわかりやすく“定義”すると下記のようになる。
「どのような個性の持ち主からの操作に対しても、同じ入力であれば同じ出力を保証する仕組みを工学と定義する。入力系と出力系の間には機械・ソフトウエア・化学反応などが介在し、プロセス自体は自動化される。」
自画自賛だが、こちらのほうが工学の特徴をわかりやすく捉えているはずだ。工学の最大の魅力は、ヒトの個性とは無関係に自然の摂理を素直に取り入れ自動化処理を施してくれるところにある。「個性とは無関係に」と「自動」の二つが大きなポイントで、特に前者については「無能な私でもこの機械を使えば(e.g.ボタンを押せば)それなりのものを出力してくれる」ことを期待させてくれるわけだ(注1)。
松岡正剛氏が80年代に「編集工学」 を提唱したのも、このあたりに惹かれたからではないかと思う(注2)。当時の出版業界の編集者から(編集が工学であるわけがない、というような)総スカンを食らったこの構想、筆者も諸手を挙げて賛同するものではない。しかし、編集が工学だったらさぞ便利だろうに、と考えた松岡氏の想いそのものには共感する。実際、人工知能(=機械学習)に小説を書かせる(きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ)、と言うところまで(一応)できていることを考えると、編集が工学かもしれないという仮説は、“ある程度”正しかったといえないこともない(実際の、特に書籍等の編集作業では工学的に処理できない部分の方が圧倒的に多い)。
どうやら筆者は、これを起業でやりたいと考えているフシがある。やる気のないサラリーマンでも、この「起業工学」を使うと、まあそこそこの会社経営ができる、みたいなことできないかしら、と本気で考えているのだ。
さすがにこんな馬鹿なことを考えているやつはおるまい、と予想しつつググってみたら、なんと、いた。「起業工学」を提唱している人がいた のである(加納技術経営研究所 起業工学とは)。ところが、この起業工学の定義が「イノベーションの原点を事例から深く学び、普遍的な要因を論じること」なのだそうで、ここでも定義ではなく「やること」が書いてあるだけである。ダメだこりゃ。
加えて、工学を名乗るのであれば、それは必ず物理量として測定・算出可能でなければならない。例えば、安心は個人の心理的特性・経験・状況に大きく依存する“感情を表現する言葉”なので絶対に物理量にはならないが、安全であれば「航空機が非常事態により不時着した場合には90秒以内に乗客全員を降ろせ」という具合に、必ず数値で表現できる。すなわち、安心工学はあり得ないが安全工学(safety engineering)は成立し得る。
筆者があったら便利だなと思う工学は、正確にいうと「特筆すべき才能を持たない定年退職後のごく普通の人が起業した会社が20年程度運営された後、1億円ほどの流動資産を残して清算するための工学」である。これを高確率持続可能型起業工学ということにする(この名称からしてすでに怪しいが)。
わかりやすくするために「起業」と言う言葉を入れているが、いうまでもなく、起業自体は登記するだけの話なので工学など不要だ。重要なのは、その会社が存続している状態を維持できるかどうかにある。つまり、持続することが目的の工学である。編集工学以上に難しそう、というか普通に考えて無理である。
しかし、こういう“考え方”に賛同してくれそうな人物が、筆者のそばに一人いた。増井俊之氏(慶應義塾大学・環境情報学部教授)だ。彼のすごいところは、私たちが当たり前に受け入れてしまった不便(=間違った常識)を解消するための道具(多くの場合、インタフェースデザインという名の工学になる)を自分で発案し、作ってしまうところにある。ただしこれは、一般人には逆にわかりにくいものになりがちだ。
例えば、私たちは「テレビにリモコンが付属しているのは当たり前」だと考えている。ところが彼は違う。なぜリモコンなど必要なのか。やりたいことはテレビ(番組)を見ることであって、リモコンを操作したいわけではないはずだ、と考えるのだ。なるほどいわれてみればその通り、ではある。しかし、リモコンの操作によりテレビのON/OFF、チャンネルの切り替えに“慣れて”しまった私たちには、それが間違った常識であるという彼の指摘がピンとこないだろう。慣れ親しんだものは、間違っていても心地よいからだ。
「マンションをローンで購入しても損はしない」という間違った常識に慣れ親しんでいれば(それはそういうものである、と無定見に信じていれば)、毎月の返済があまり苦にならないのと同じである。起業すると「年に2回のボーナス払い」など正気の沙汰ではないことが明確にわかるのだが、「皆がやってるから」という理由だけで判断を停止してしまう。これは最終的には人を不幸にする。
当たり前に受け入れている不便は、多くの場合、特定企業または国家による悪意のない陰謀、または本来実現すべきサービスに対する開発サイドの能力不足、そして私たち自身に内在する“常識の誤謬”のようなものに起因すると思う。
冬の首都圏で雪が降り出すと、当然のように間引き運転をする通勤電車が出現し、私たちはそれをごく当たり前に受け入れているが、実際にはむしろ増発したほうが、合理的だ(首都圏「大雪時の間引き運転」は逆効果だ)。雪道でクルマがスタックした時に、思いっきりアクセルを踏むことでさらに傷口を広げている不幸な人が散見されるが、ごく微妙なアクセルワークのON/OFFでクルマ自体を“ゆりかごの中で赤ちゃんをあやすように”前後に優しく揺らし続けることでノーマルタイヤでも簡単に脱出できる。
自分が当たり前だと思っていることの大半は間違いだ、と考えるくらいの謙虚さが必要なのである(それにしても、雪道をハイヒールで歩くことができる都会の女性はすごい。筆者には曲芸としか思えないこの能力をもう少し有意義な用途に転用できないものだろうか)。
ともあれ、起業は一部のやる気のある若者の行為であって、中高年になって会社を作る人というのは相当変わっている人、あるいは、ある種の才能に恵まれた人であって凡庸なサラリーマンには難しいものである、というのが間違った常識であって、彼がいうところの「当たり前に受け入れてしまった不便」に該当する、と筆者としては考えている。彼が斬新なインタフェースをサービスとして提唱するのであれば、筆者としても凡人向けの持続的経営を可能にする工学的なものを作れないわけではあるまい、と夢想してみるわけである。
というわけで、42/54の書籍版「会社をつくれば自由になれる」の発売を記念して、増井氏と筆者によるトークイベントを紀伊國屋書店新宿本店9Fで開催することになった。
そのまま勤める?それとも起業?
中年のための「長く楽しく働ける方法」を真剣に考える イベント
2018年2月6日(火)
なお、筆者の知り合いの方におかれましては、ご来場いただかないようご配慮いただければ幸いである。
また、増井氏の最近の論考は、「スマホに満足してますか?」(光文社新書)にまとめられているので、未読の方はぜひご購読いただきたい。日頃、アイデア不足に悩むサラリーマンにうってつけの発想法が満載の良書である。
注1)
工学の起源には諸説あるが、オートマタ(Automata:自動人形、日本風には“からくり人形”)あたりにとどめておくのが無難だろう。オートマタの語源は、automatos(ギリシャ語)で「自らの意志で動くもの=自動」だそうである。
注2)
実は筆者は、前職(日経BP社)を退職した直後に「編集工学研究所」の顧問を1年間だけ仰せつかったことがある。しかし、お互いそれどころではなかったからだと思うが、松岡氏と編集工学について直接深い議論をする時間はほとんどなかったように記憶している。
- 書名
- 会社をつくれば自由になれる
- 出版社
- インプレス/ミシマ社
- 著者名
- 竹田茂
- 単行本
- 232ページ
- 価格
- 1,600円(+税)
- ISBN
- 4295003026
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