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起業しないことが挑戦になってしまう時代の到来

挑戦(challenge)とは、そのまま失敗を意味する。失敗する確率が高そうな事象を挑戦という。挑戦と失敗はパッケージになった言葉である。挑戦は賛美されるべき対象ではない。「定年後のあなたでも起業にチャレンジできます!」などというセミナーは即刻中止していただきたい。なぜなら、私たちは起業しないこと自体が挑戦になってしまう時代に足を踏み入れたからだ。もはや起業それ自体はチャレンジではない。

「おい、飲みに行こうぜ」は、英語で「Let’s socialize !」という。英語のsocialは語源としてはラテン語のsocius(ソキウス)まで遡ることができるが、結びついているとか、お友達、程度の比較的気楽な意味で使われていた。母国語で使っている人にとってはかなりくだけたニュアンスのはずで、日本語でこれにもっとも近いのは、世間あるいは交際だろうと思われる。

ところが、富国強兵を推進する明治時代、福沢諭吉らはいわゆる“明治翻訳語”の一つとしてこれを「社会」と訳した。それまでの日本が使っていた漢語の中には存在しない新しい言葉であり、かつ本来の意味からも少々距離を置いたものになった。

この明治翻訳語には、すべての言葉が比較的毅然としているという共通する特徴がある。立派なものに格上げされたイメージだ。文明後進国を自認する国が先進国から輸入するものは、すべて自国より優れたものに違いない、という強い思い込みがうかがい知れる(注1)。残念ながらこれは現在まで続く傾向でもある。

これは、外車といえばヤナセ(当時は梁瀬商会)から輸入する立派な左ハンドルのクルマだった大正初期に近い感覚だろう。日本の道路事情や道路交通法に馴染むか馴染まないかとは無関係に、左ハンドルだというだけで“車格”が上だった時代があったのだ。

同様に、“世間”はあちこちに転がっている慣れ親しんだ事象だが、“社会”は、到達しにくい理想的な状態を表現しているように思える。用途に応じて使い分けるために言葉が増えて行くことそれ自体は、むしろ歓迎すべきだ。“忖度”のように、翻訳しにくい言葉は海外からは理解しがたい独特の武器になる可能性があるからだ。例えば、単品管理(tanpin-kanri)は米国では立派な外来語として利用されている。

ただし、力強い言葉を多用したプロパガンダとしての精神論が続々と登場するようになると、その国はあまり良い状態ではないと考えたほうがいい。良くも悪くも「所得倍増」は、言葉は短いが非常に具体的だった。これに比較して、「人づくり革命」などは全くもって意味不明な精神論である(政権の中心を担う人が革命を連呼するのも妙な気がするが)。

物資・資源・能力の不足を「格調と抽象度の高い言葉」で安上がりに補おうとする国や人は、相当追い込まれていることを自覚する必要があるだろう。明治150年記念事業などを見ていると、この国はもはや「立ってる者は親でも使え」状態になっているように見える。

例えば、下記は理化学研究所のある研究室の所員募集要項である。

「博士号取得者または着任までに取得見込みの方で、協調性、積極性、冒険心、高い向学心、幅広い好奇心、柔軟な思考、明朗な性格、鋭い洞察力、爆発的な瞬発力、驚異的な持久力、信念宿る強靭な肉体、不屈の精神、そして散り際の潔さ、これら全てを兼ね備えている方、またはこれらの項目の内、幾つかを有している方。In vivo パッチクランプ記録、2光子イメージングを習熟している方、または未経験でもこれら技術を習得する意気込みのある方。冒険者、開拓者の意味を知る方」を採用したいのだそうである。

要約すると「天才を募集する。早急に高い成果を出して、さっさと辞めていただきたい」というかなり都合のいいことを言っていることがわかる。さぞかし科研費の確保に相当苦労している研究室なのであろうと同情はするが、昨年創立100周年を迎えた日本の知の最高峰でこのような募集が行われて良いのだろうか、と少々不安にもなる(理化学研究所自体は、このようなプロジェクトベースの研究者募集の日本におけるフロンティアではある)。

ともあれ、文語は口語よりも力強くかつ律動感に溢れ、漢語は和語よりも意味を厳密に、そして守備範囲を狭くする。その中でも、明治翻訳語は一種の高級言語なので使い方には慎重になったほうが良い。

さて、中高年向けの起業セミナー(に限らず、だが)で多用される言葉の一つが「挑戦(challenge)」だ。あまりにもありふれ、かつ気軽に使われる言葉だが、この言葉には、立場の弱いものが強いものに立ち向かう、勝てる確率が極めて低い、劣勢であることが最初からわかっている、という意味合いが内在している。

その上で「起業とは挑戦である」という暗黙の合意が成立している。「2017年版『中小企業白書』」によれば、開業率が5%と極めて低い数字に留まっている。このことからも、この合意は案外正しいといえるだろう。起業しようと思うこと自体が挑戦なのだ、という認識は数字上は、そして現時点では(少なくとも日本においては)正しいのだろう。

ところで、労働人口全体が順調に減少していく中で、これを補う施策にはさほど多くの種類はない。

1)海外からの労働者を増やす
2)業務を自動化し、ヒト以外のもので間に合う仕事に置き換えていく
3)なるべく若いうちから働き始める
4)死ぬまで働く
5)仕事そのものを減らし、清貧を楽しめる比較的お気楽な社会にする

5)はとりあえず論外ということにしておくにしても(これはこれでじっくり議論してみたい話題だが)、何しろ雇用する立場からすれば、国籍を問わず優秀で若い人材のほうが(使い倒せるので)ありがたいに決まっていて、それなりの能力があったとしても文句ばかり言うプライドの高いジジイなど使いたくないものである。

逆に、最悪の労働条件でも働いてくれるような高齢者ができそうな仕事は自動化が進むはずなので、わざわざヒトにそれを依頼する必要はなくなるだろう。したがって、高齢者は労働市場における立脚点自体が消滅し、それ以外のところへ弾き飛ばされるはずだ。

定年退職後の働き方においては、雇用という枠組みの中でそれをやりくりしようとすることのほうが、むしろ挑戦と呼ぶにふさわしい時代になってしまったということだ。30年後くらいに、その転換点になったのが“働き方改革”や“人づくり革命”が連呼された2018年だった、と振り返ることになるだろう。

残念ながら、起業が挑戦ではなくなり、起業しないことが挑戦になってしまったのである。65歳から雇用先を探し回ることの大変さは、65歳から社長をやることよりもはるかに困難だろう、ということは容易に想像がつく。仮に雇用にありついても、(前述のように)労働条件が最悪であることが予想される。

それまで自堕落な生活を送っていた独身サラリーマンでも、結婚を機に生命保険に入ったりする。とりあえず(家族ができるなら)保険くらい入ったほうがいいかな、という判断だ。同様に、さらに時代が進めば、「とりあえず結婚したんだから、自分の会社くらい作っておこうと思うんだけど、どう?」「そうね、とりあえず作っておいて」などとお気軽に起業する時代になるだろう。定年と同時に起業という行為自体が仮に盛り上がったとしても、それは一時的な現象で、ゆくゆくはこのような起業が当たり前になるはずである。

注1)
参考文献:『翻訳語成立事情』 柳父章 (岩波新書、1982)

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026