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効率重視の時代の終焉

労働生産性が高いのは文句なしに“良いこと”ということになっているが、これは同一のサービスやモノを大量生産したい場合の話である。これから本格的に人口が減少していく日本は、どう考えてももはや大量にモノを生産する必要はない。重要なのは“価格を上げる”あるいは“高価格にふさわしいモノ”を作ることだ。労働生産性はむしろ低くないと価格は高くならない。適用範囲が広いソリューションとしてのデザインの時代から、興味がない人には意味不明な自己肯定感だけで構成されているアートの時代にシフトしないと、日本は国としての存続が危ぶまれる。

ハワイ島のコナ国際空港(Kona International Airport )を少し北上したところに米国の俳優・ハリソンフォード(Harrison Ford)の別荘がある(らしい)。近くの幹線道路(Hawaii State Highway 19)からは数百メートル続く険しい溶岩台地に阻まれた沿岸にあるので、クルマで近づくことはできない。おそらく、自身で操縦するプライベートジェットで空港に到着後、クルーザーで海を経由して自身の別荘に辿り着く、という恐ろしく面倒なルートをあえて選択したのだろう。

ここまでアクセスが不便だと、自分自身もさほど頻繁にはこの施設を利用できなくなるはずだが、プライバシーが完全に守られ、多忙な芸能人の心の平安が保障されるのは確かである。

残念ながら庶民は、別荘やプライベートジェット、あるいはクルーザーなどとは無縁だが、比較的これに近い状態、つまり「さほど使わないが比較的割安に心の平安が確保できる」のが“自家用車”である(割安と言いつつもそれなりに高価格だが)。

業務用車両は長時間走行しないと仕事にならないが、自家用車はその時間の95%は“単に停車しているだけ”に過ぎない。カーシェアリングや自動運転車の普及論者はこれを根拠に、現在のような自動車社会は非効率なので続かない、と警鐘を鳴らす。しかし、筆者のように通勤にクルマを使っているものでも、平日平均でおよそ1時間もクルマを動かしていればまだマシで、その程度での利用頻度でさえ年間走行距離は2万kmを超える。そもそも、自家用車が1日の10%(=2時間以上)も稼働していたら、おそらく仕事にならない。自家用車と業務用車両・公共交通を一緒にした議論は無駄である。

自家用車の本質的価値は、その稼働率や走行距離にはない。そもそもユーザーが稼働効率を重視していたなら自家用車はここまで普及しなかっただろう。実際には、24時間いつでも好きなところに行ける“権利”としては割安だ、という判断をしているのである。自家用車には保険に近い商品性(=権利の確保)があることを見抜いている、ともいえる。

カール・ベンツ(Karl Benz)によるクルマそのものの発明よりは、それを個人で所有させようとしたヘンリー・フォード(Henry Ford)の考え方の方が画期的だったのだ。

来たる自動運転社会を論じる時に「一部のクルマ好き以外は」という慣用句が必ず登場するが、今までも、そしてこれからも「一部のクルマ好き」など自動車メーカーからすればマーケットとしてはどうでもいいサイズ(規模)でしかない。自家用車を所有している人の大半は、そもそもクルマそのものに興味はない。

長期間使っているとクルマ自体が擬人化されるので愛着が湧くことはあるが、これはクルマ好きとは違う。昨今、大手クルマメーカーはこぞってカーシェアリング事業に参入しているが、自家用車が所有から利用に本格的に移行するとは露ほども想定していないだろう。所有したくなるきっかけを提供する手段としては効果的、と想定しているに過ぎない。非効率であること自体が様々な価値ある冗長性を産んでいることを体感させるためにこそカーシェアリングは存在する。加えて「(自家用車を)購入はしたが、あまり利用していない状態」は経済と環境が高いレベルで最適化されている、という計算が成立するだろう。

効率の良さが天変地異に対して極めて脆弱であることは、私たちには骨身に沁みているはずだ。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災の時、筆者の事務所(東京都・港区麻布十番)のすぐそばにあったコンビニからはあっという間に商品が消え、補給が断たれ、かつ復旧にかなりの時間を費やすことになった。

これは、日常的には極めて“効率的に”ロジスティクスが構築されていることの証左でもある。一方、売るつもりがあるのかないのかはっきりしないような在庫を大量に抱えていた古くからある地元の商店は、日常的な冗長性を武器に大いに地元に貢献していたと記憶している(これに関連して“非常食”についてユニークな考え方が可能だな、と思いついたので、別途記事にする)。

労働生産性も然り、である。そもそも「新規案件」などは天変地異のごとく“突然”割り込んでくる。その時、労働生産性が仮に最高の状態だとしたら、その新規案件を受けることはできないだろう。普段の仕事ぶりが冗長であるからこそ新規案件の相談に乗れる。

つまり、冗長であることが売上げの増加につながるというパラドックスが成立する。スポーツでも楽器の演奏でも、あるいは料理でも日常的な生活でも、ある種の“タメ”のようなものがあるからこそ動けるのだ。タメを作らない仕事は品質が低くなる。特に職人と言われる職業の人の仕事ぶりは素人が見たら“無駄”の塊だし、食品に至っては(発酵などのように)自然の時間の流れに任せざるを得なくなるものが多くなるので、労働生産性の観点からしたら最悪の働き方のはずだが、結果的に高品質と同時に高価格が維持できている。

人間は、その存在自体がそもそも冗長である。労働生産性は“論理的な作業(仕事ではないことに留意してほしい)”に対してのみ適用できる概念だと考えていただきたい。そしてその論理的な作業は、今後は全て気の利いたアルゴリズム(AI)に基づくデジタルテクノロジーが素早く処理してくれるだろう。

私たちは、せっせと“タメ”を増やすことに専念すればよい。読書したり、妄想したり、無駄話をする時間こそがタメに該当する。論理は機械に任せ、私たちは感情に没頭すればいいのである。その時、仕事と遊びには区別がなくなり、それらすべてが単なる、しかしかけがえのない“生活”であることを発見するだろう。特に体力的低下が著しい中高年の経営学において最も重要なのが、この“タメの確保”だ。

高橋孝雄氏(日本小児科学会会長)が語るところによれば(注1)、一人の人間には性別とは無関係に父性と母性が同居する、という(男性は父性、女性は母性が強く発現していることが多いだけの話である)。父性は論理的な処理による「治療」に威力を発揮し、母性は感情的な処理による「看護・介護」が得意だ。しかし今後は、父性をAIが代替できるようになる。そうなると、“医者”といえば普通は(母性を発揮しやすい)女性、という時代になるだろうと彼は予見する。「女医」という言葉が死語になるのである。男性の医者であっても、患者から要求されるのは母性、ということでもある。

筆者の仕事に近い分野の職業人にカメラマンが存在するが、彼らの仕事もより感情的なものにシフトしていることを実感する。論理的に美しい写真は全てプログラムオート(Program Auto)で撮れてしまう。現代のカメラマンは撮影ではなく、ローデータ(raw data)からの現像処理とレタッチ(photo retouch)に長時間を使う。これはもはや絵画を描く作業と区別がつかない。論理よりは感情が優先する芸術的な作業に没頭しているのだ。第三者からは冗長に見えるが、だからこそ人を感動させる写真が完成するのだ。

このような事例をいろいろ挙げていくと、AIが普及するこれからの時代は、ソリューションとしてのデザインの地位はどんどん低下して、無駄で冗長なアート、あるいはアーティスティックな作業だらけになる可能性が高い。アートとは一言でいえば「自己肯定感」のことだ。「(他人がどう言おうと)俺はこれがいいと思ったからこれでいいのだ」こそがアートの本質である。

ビジネスとしてはスケールしないが、極めて小さなクラスターやコミュニティでは比較的高額で取引される。それが無数に存在する状態は、システム科学(systems science)の観点からも極めて安定的だと考えられる。

「アーティスティックな作業」にはモノが介在しない場合も多い(落語などの話芸、コンサルティング、ボランティアなど)ので、高付加価値にも関わらず非課税にできる可能性もある。

そう考えると、地下経済(日本の場合、GDPの10%程度、すなわち50兆円程度の規模と推定されている)がより豊かな社会を作り出すエンジンになるのかもしれない。そしてそのエンジンは、“信頼の連鎖”という部品で構成されていて、具体的には“紹介”という行為で表出しているはずである。

紹介には(人間が生物である以上)実空間や飲食が必須で、これをデジタルテクノロジーやAIで作るのは未来永劫不可能だろうし、可能にしなければならない必然性も存在しない。

注1)『小児科医のぼくが伝えたい 最高の子育て』高橋孝雄(2018)マガジンハウス

 

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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