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クルマの先に見える聴覚優位の時代

情報の80%は視覚から入手している、という俗説が正しいのかどうかは定かではないが、人類が視覚優位の生物であることに異論はないだろう(例えば、身近な動物である犬は嗅覚がヒトの視覚に相当する役割を担っている)。しかし今後は、視覚的価値はAIに委託することができる。嗅覚、触覚、味覚、そして聴覚を駆使することで、視覚優位性により構築できた文明や利便性(そしてその弊害)とは異なる価値に没頭できる時代がやってくるかもしれない。

“魚は自分自身が水の中にいることを意識できない”と喝破したのは確かマクルーハン(Marshall McLuhan)だが、私たち人間も新鮮な空気が存在することに日常的に感謝する機会は少ない。刺激を感知することのない穏やかな日々はかけがえのないものではあるが、それが同時に得難いものであることを常に意識するのは至難の技だ。むしろ、痛みや快感こそが生き延びるために重要なシグナルであり、そのシグナルこそが私たちの生活実感に他ならない。

例えば、記憶に残る旅は小さなトラブルを伴うことが多い。ようやく到着したホテルに届けられたスーツケースが他人のものだったりするのも、後から振り返れば“楽しい思い出”だったりするわけだ。一方、最初から最後まで快適だっただけの旅行は案外印象が薄い。快適さにはすぐに順応してしまい、所与のものとして受け入れ、最後に“飽きる”ことで、生活実感を希薄なものにしていく。私たちは、心のどこかである種の偶然やハプニング、そして予想外の感覚を切望している。

一般に“高級車”とされるクルマに求められているのは、価格相応の快適さである。不愉快な振動や様々なノイズからきっちりと遮断され、五感や体性感覚をいたずらに刺激せず、なめらかに移動できることが高級車の条件だ。ベントレー(Bentley:Walter Owen Bentleyが1919年に英国で創業)の走行感覚を“魔法の絨毯(じゅうたん)”に例えることがその典型だろうか。

しかし、この種の高級車の移動による快適さの最大の弱点は、べらぼうに金がかかり、かつ記憶に残らないという点にある。立派な社用車の後席にふんぞり返って新聞を読むことができるのは、そのクルマが余計な刺激を与えないように配慮しているからで、それを快適と感じることはあっても楽しいと思う人はいないだろう。

高級車を“サルーン(Saloon)”と言い換えれば、その性格が旗色鮮明になる。何しろ語源はサロン(salon)、すなわちゆったりしたソファで寛いで静かに談話を楽しむ場所がサルーンの本来の意味だ。ソファもテーブルも、あるいは飲みものまでもが快適でありさえすればよく、それぞれが何かを激しく主張する必要はない。

ホテルのラウンジでどんちゃん騒ぎをしていたらつまみ出されるのがオチだが、これはサルーンという言葉がある種の公共性を帯びていることを意味する。さらに極論すれば、サルーンはクルマである必要すらない。とてつもないスピードで移動しているのに存在感が希薄で快適な乗り物といえば新幹線が代表格だが、これも立派なサルーンとみなすことができる。

ただし、新幹線が経済的に成立するのは、目的地と希望到着時刻が一致する顧客を同時大量輸送することを前提にしているからで、この二つがもしも個々の乗客の自由になるとしたら何らかの工夫がないと採算を取るのは極端に難しくなるはずだ。これが自動運転に関する議論につながる。

来たる自動運転社会の“ビークル”として自動車メーカーがイメージスケッチを描くと、小さなテーブルに4つのソファが向かい合って置かれているものであることが多い。要するにラウンジ(Lounge)になっている。ただ、快適なラウンジを4人程度のグループで占有しながらの好きな場所へ好きな時に移動することが果たして社会的に許容されるのか、という問題があるわけだ。

結局、この4人からある程度の自由を剥奪しつつ、かつ快適な状態を提供できるのは自動車メーカーではなく鉄道会社なのではないか、という考えに至ることになる。前述の理由から、鉄道会社でもなかなかハードルの高い課題であるように思われるが、自動運転車とはクルマの進化系ではなく、電車のパーソナライズだと考えた方がそれでもまだ現実的だろう。

3車線の高速道路の追い越し車線のみを道路公団からJRに譲渡または貸与し、そこでパーソナライズされた電車だかバスだかわからない妙なラウンジが、ハブになるような地点ではシームレスに軌道(この時の軌道は鉄ではなくデジタルデータで生成される。すなわち3Dマップである)の上を走る世界であれば、比較的短期間で実現できそうな気がしないでもない。

自動運転社会がどうなるのかという議論が錯綜しやすいのにはいくつかの理由があるのだが、その一つが公共空間と私的空間(Personal Space)の混在だ。この議論は、最終的に“倫理と環境”の問題に突き当たり、自動車誕生以来のジレンマ(=利便性と交通事故・環境問題とのトレードオフ)に陥る。国を挙げて自動運転化を推進すべく強権発動できるのは世界中を見渡してもシンガポールくらいのものだろう(バンコク産業情報センターの報告書)。

そこで、多少乱暴だが、最初から二面性を持つ自動車なる移動体を「公共交通機関(Public Transport)」と「自家用車(Private Car)」に分離して議論すると見通しが立て易くなる。『自動運転の論点』はこの目的で創刊され(注1)、このウェブメディアを母体に発行した書籍が『モビリティと人の未来』である。これらは主に前者、つまり公共交通機関のあり方を世に問うべく発刊された。

では、後者、すなわち「自家用車(=自分が所有し、自分が運転するクルマ)の未来」はどうなるのだろうか、という視点について少し考察してみる(注2)。

何しろ全世界に普及している自動車の70%が自家用車である、という厳然たる事実から、自家用車の自動運転化は、公共車両あるいは業務用車両を前提に考える自動運転社会の2倍以上の社会インパクトが想定される。公共・業務用車両の自動運転化は全体最適化による快適性をゴールとする社会デザイン論なので、最終的には“街づくり”の話に落ち着くはずだ。一方、自家用車の場合は、交通事故を起こさずに運転を楽しむため(トヨタが標榜するところの fun to drive )の操縦の自動化(=自動運転化)というシンプルな目標を立てれば良い、ということにしておく。

自家用車は、そもそも自動で動くクルマをイメージして作られた。操縦という操作の自動化は、クルマ発明以来の継続的な検討課題であり悲願だ。自動車関連技術の発展の中で、ドライバー視点での技術的なイノベーションは3回あったように思う。最初が1940年前後にゼネラルモーターズ(GM)が開発したオートマチック・トランスミッション(AT)、次に60年代の燃料噴射(Fuel Injection)をコンピュータ(CPU)で制御する、という電装化(筆者は“チョーク”という装置を手動でコントロールした経験がある最後の世代だ)、そして3番目が1981年にホンダが開発したカーナビ「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」である。

ただし、ATや電装化が機械駆動系の“正常進化”であるのに対して、カーナビはクルマを情報端末とみなしている点が決定的に異なる。これは良くも悪くも機械優位から情報優位に、そして手足の挙動ではなくドライバーの脳内の意思を反映させようとしている情報化であることに着目しておきたい。ATの利便性がもたらす快適さと、カーナビで目的地に着いてしまう感動はかなり異質のものだなと実感したドライバーも多いはずだ。

カーナビが普及し始めた頃、ドイツの三大メーカー(ダイムラー、BMW、アウディ)は口を揃えて「運転中にドライバーの視線移動を強制するような装置は採用しない」と豪語していた記憶があるが、何のことはない北米(=ドル箱)でカーナビが普及し始めると、彼らもそのトレンドにさっさと迎合した。しかし、筆者自身はこのときの彼らの発言は今でも正論だと考える。

実際、カーナビのコアコンテンツはすでにディスプレイ上のマップではなくボイスナビゲーションにシフトし始めている。これがさらに進化して、自動車教習所の教官であり空港の管制官でもある“人間のようなもの”が助手席に鎮座し、ああしろこうしろ、と指示を出している様子をイメージしてもらえばいい。要するに人工知能との対話である。目的地さえAIの推薦に従うことになるはずだ。

「一本桜が綺麗なところに行きたいんだが」「今から出発するとしたら…….長野県大町の青木湖の一本桜は残雪がある白馬連峰が背景になるからおすすめだけど、どう?」「ほう。いいね、それにする。何時ころ到着できそう?」「今から出発なら…夕方の4時くらいだな」「いいよ、それで」「OK、じゃあまずは中央道の国立府中インターを目指そうか。エンジンをスタートさせてくれ」とここまできて、ようやくドライバーはクルマに乗車すべく自宅を後にすることになる。ナビゲーションは、自宅にいるあなたが手にしたスマホから始まるのである。

高速道路で後方から猛烈な勢いで真っ赤なポルシェが接近してきたら(若者には意味不明な価値だが)山口百恵の曲を再生するくらいの気の利いた反応をしてくれるだろうし、国道19号で中津川あたりに来れば島崎藤村の「夜明け前」の朗読を始めるのかもしれない。渋滞しているので松本インターで降りれば、松本城半径4km以内は強制自動運転モードになるので、地域限定の部分最適化が行われ、逆にスムースに移動できるようになる。今なら諏訪湖SAで、通常は販売していない横川の釜飯が買えるよ、というキャンペーン情報を高い精度(=ドライバーの状況や個性を考慮したレコメンド)で提供したりもする。

つまり、立場が対等なコンシェルジュ(concierge)が常に助手席にいて、クルマ自体をメディア化するイメージだ。コンシェルジュの役割は、安全にかつ早く到着させることは当然で、むしろ、ドライバーが予想していなかったような情報提供を(肉声で)与え続け、ドライブをより刺激的なものにすることに主眼が置かれるようになるだろう。

無論、ボイスの品質も多目的最適化技術(注3)を駆使することでドライバーの好みに応じたカスタマイズが可能になるはずだし、著名人・アナウンサー・声優は自分の声を“販売”することになる。歌手でなくとも自分の声が売れる時代がやってくる。大隈重信の肉声でさえ「国立国会図書館デジタルコレクション」に“実在”するので、想像もしなかった音声サービスが可能になる。

ボイスと日本語には、独特の情報の揺らぎがある。というよりもむしろ曖昧さを残す技術こそがキモになるはずだ。現在のカーナビのように、交差点にくるたびに「ここはヒヤリハット地点です」をオウムのように繰り返す無能なものではなく、「もうすこしスピード下げた方がいいと思うんだけどねえ」というように、ドライバーの自由度をある程度許すような曖昧なサジェストが心地良い。ここで日本語という世界的に孤立した言語の優位性が浮上してくる。筆者は、日本語ならではの刺激の提供方法があるはずだ、と確信している。

これは大きな枠組みの中では、人類誕生以来の視覚優位から聴覚・触覚優位になる時代の到来を意味する。視覚による判断はむしろAIのほうが上手(うわて)という時代になった時、ドライバーは聴覚に専念できる。人間の視覚自体は優れたUI(User Interface)の専門家が考えたごくシンプルなグラスコックピット(glass cockpit:注4)をたまに覗くだけでよく、それ以外は風景を楽しむだけでいい。

もはやこうなれば、モータージャーナリストという仕事は不要だ。情報・通信・メディア・UIの専門家がその専門性を武器に堂々とクルマのことを語る時代がやってくるだろう。

注1)
2016年に創刊し、コンテンツ課金にチャレンジしたが失敗し、現在は無料で開放している。チャンスがあれば(=スポンサーがつけば?)再起動させたいと考えている。

注2)
無論、利用者が個人であっても、その一台の自家用車の背後にはたくさんの社会性が控えている。例えば、「全固体電池」なるものの開発が急ピッチで進められていて、現在のリチウムイオンバッテリーの最大の弱点である発電量と重量の問題を一気に解決するポテンシャルを秘めてはいるが、全固体電池を開発している会社自身がリチウムイオンバッテリーでえらく儲かっていて、かつ設備・工場の償却が終わっていないのなら、経営者は「あまり早く出すな」という指令を下すはずだ。先端技術が実装されるためには別の社会技術が必要になるのである。当然、自家用車の個人ユーザーもそのような企業都合から逃れることはできない。

注3)
音声認識システムが高い精度を実現するためには専門家による多数のパラメータ調整が必須だった。これを多目的最適化手法の一つであるパレート最適を利用する方法と機械学習を併用することで解決するための研究開発が加速している。(裏をとったわけではないが)昨年東芝が開始したこのサービスはおそらくこのあたりの知見がふんだんにインストールされているはずである。

注4)
アナログ計器が増えすぎてパイロットの認知限界を超えた、一機あたりの乗務員数を減らしたい、などの理由から1982年に就航したボーイング767(Boeing 767)が最初に採用した。現代の自家用車は高級車ほどディスプレイの面積が大きいことを誇る傾向が顕著だが、10年後くらいにはこれを“恥ずかしい過去”として振り返ることになるはずだ。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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