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「プランB」は個人のレベルでの三つの事業部から作れ

プランBとは「バックアップのために起動させる次善の策」だが、この次善の策というもの自体が複数の策から構成される。これがプランBの特徴だ。これを国に要求するのは筋違いで、本来、個人で作るものである。これは自分自身を三つの事業部で構成されている人間、と認識するところから始まる。

『プランB 破壊的イノベーションの戦略』(ジョン・マリンズ/ランディ・コミサー著)が山形浩生氏による翻訳で文藝春秋から刊行されたのは2011年だが、ここでは、スタートアップが最初に作る事業計画「プランA」は失敗することが多く、これを検証した上で作る「固定概念を破壊するプランB」が急成長の要因になることを20社程度の米国有名企業を事例として紹介している。

この書籍で展開される劇的なストーリーには足元にも及ばないが、最初に考えていたことと全く違うことをやって禄を食んでいるというレベルなら、自分で会社を作ったことのある人は大半が経験しているはずだ。華麗な事業計画の下に、満を持してスタートした事業がサッパリで、仕方なく始めた商売や偶発的に飛び込んできた仕事がその後の事業のコアになっていくというストーリーは、比較的ありふれた、そして企業の規模を問わずよくある話だろう。

筆者がその設立に参画したアジャイルメディア ・ネットワーク株式会社(AMN)も、まさにこのパターンだった。AMNは「優れたブログ群をネットワークできればそれがそのまま優れたネットワーク広告になる」という(当時の)米国Federated Mediaのモデルをそのままパクって2007年にスタートさせたのだが、これがまったくの鳴かず飛ばずだった。数年間の試行錯誤を経て登場したアンバサダー(Ambassador)プログラムという「プランB」でようやく息を吹き返し、上場までこぎ着けたのだ(AMNのプランAがなぜうまくいかなかったのかについては、たくさんの面白いエピソードがあるのだが、本論とは無関係なので省略)。

ということで、ここからが本題である。現在求められているプランBとは、冒頭で挙げた書籍で紹介されているような華麗でイノベーティブな変身やユーザーを確保したまま事業の方向性を変えるピボット(Pivot)などではなく、本来の意味のプランB、すなわち「バックアップのために起動させる次善の策」であろう。

では、何がプランAだったのかといえば、日本の場合、これはもう間違いなく「戦後の日本経済の高度経済成長を実現した日本的経営」だ。実際には、この「プラン」は1974年のオイルショックを契機に徐々に力を失い始める。85年のプラザ合意で少し持ち直すが、これが同時にタガを外すきっかけとなり、91年前後のバブル崩壊につながる。

失われた90年代をなんとかやり過ごそうと思っていたら、リーマンショック(2008年)で止めを刺され、満身創痍のはずなのに、2011年3月11日の原発事故を含む東日本大震災を経てもまだゾンビのように生き長らえようと悪あがきをしていた、というのが実態だ。

しかし、ここに最後通牒を、日本のみならず世界に突きつけたのが新型コロナウイルス(COVID-19)だ。長い歴史の中ではほんの一瞬の幻影に過ぎなかったプランAに固執したり、元に戻そうとするのはいい加減に止めろ、という自然界からの警告のようにも思える(しかし、こうやって振り返ってみると、そもそもプランAが全く「成功」していないことに改めて気付かされる。むしろ、プランと呼べるほど立派なものは存在しなかったのかもしれない)。

今回のCOVID-19騒動で意外と指摘されていないのは、これが地震・津波・台風などと同様の自然災害だ、ということだろう。自然災害には二つの大きな特徴がある。周期的または突発的に必ず発生するということと、終わりがない、ということだ。

COVID-19も、毎年寒くなると流行するインフルエンザのような(不謹慎な言葉だが)風物詩的なものとして私たちの生活に定着するだろう。ただ100年前のスペイン風邪と決定的に違うのは、過度の利便性や快適を追求するグローバルなプランA的経営(=沸点の高い新自由主義的経営)と人口の増加が、災害時の経済的ダメージを大きくしていることにある。

災害から立ち直るべく、地元は復旧(=元に戻った状態)を、そして国は復興(=元に戻る以上のさらなる発展)を求める。しかし、いま起動させなければならないプランBに求められるのは、復旧でも復興でもない第三の道、いわば熱力学における相転移、すなわち状況に応じて同じ物質が、固体・液体・気体(あるいはプラズマ:気体が極端に電離した状態)という具合に様相を変化させるような柔軟さだろう。固体が気体より「偉い」わけではないし、液体がプラズマに比べて「正しい」わけでもない。私たちの(仕事を含む)生活を臨機応変に、その場の状況に対応可能な状態にするための技術こそが必要なのだ。

それは(住宅は35年ローンで買うもの、家族はみんな一緒に住むもの、というような)様々な神話を再度検証し、破壊し、自分らしく再構築していくプロセスでもある。そこに注入すべきもの、私たちに欠けるものが(古典的な教養主義とは異なる)新しい「教養」であって、リベラルアーツとは根本的に考え方が違うはずだ。だが、この作業を阻むべく立ちはだかるものがある。そのひとつが「明治翻訳語」ではないだろうか。

例えば「社会」という言葉は、Societyの訳語として明治時代に福沢諭吉らによって「捏造」された言葉だ(それまで中国・韓国語圏の中にあった日本が利用していた漢語に「社会」という表現は存在しなかったはず)。タマゴの殻にいくら「社会」という言葉を被せても、中身(白身と黄身)にはSocietyという成分しか存在しない。しかも、Societyという言葉が持つカジュアルなニュアンス(元々福沢らはこの言葉を「仲間連中」と一度は訳している)は一切切り捨てられ、もっぱらism(主義)に近いところだけを恣意的に利用させようとしている言葉が「社会」であることに、私たちはもう少し自覚的でもいいはずなのだ。極論すれば、「社会」は日本語ではないのである。

日本人にとって、例えば超高齢化「社会」は、自分とは無関係な抽象度の高い概念でしかなく、容易に感じ取ることができるのは「爺さんや婆さんだらけになってしまった世間(せけん)」だけなのだ。ただし日本語には、全てがそもそもが借り物、すなわちあちこちからタダで仕入れて、使いやすくするために改変してきたという歴史がある。これを繰り返すうちに、この言葉は兄弟や親戚がいない、良くも悪くも完全に世界から孤立した独自の言語になった。

従って、私たちがこれから作るべきプランBは、明治翻訳語に代表される外来語に限らず、全ての言葉を自分中心の生活者視点で改めて捉え直す、あるいは再度翻訳し直すことからスタートするべきであるような気がするのだ。

なおプランBは、プランAの対立概念のように捉えられがちだが、実はプランBはプランAをも包含するアウフヘーベン(止揚:aufheben)した概念だ。簡単にいえば「融通無碍な二枚舌」こそがプランBの真骨頂である。二者択一を迫る行為や一貫した主義主張は潔いしカッコいいのだが、状態の変化に極めて弱い。主義主張と心中するほどバカバカしいことはない。相転移と相容れない頑なさは、自滅への道まっしぐらである。

「その場しのぎ」は、あまりいい意味では使われないが、優れたその場しのぎは優れた相転移の技術の賜物でもある。例えば、和の対立概念が洋だとすると、日本に存在するのは和でも洋でもなく、それらを足し合わせて接木(つぎき)し結果としての和風(和もどき)だ。和風とは、アウフヘーベンの結果に他ならない。従って、最初からプランBなのである。

また、プランBを国(政府)が用意していないことを糾弾する言論をあちこちで見かけるが、合意形成した上でプランAを推進してきたわけでもない団体がすんなりプランB(なるものが仮にあったとしても)を受け入れるはずがない。また、それが優れたプランBだったとして国民全体が「まとまる」ようなことがあったなら、それはその後に起こるであろう変化に対応できない脆い集団に成り下がる可能性が高い。

プランBは個人が、自分で作るものなのだ。インドカレーと同じなのである。

作り方は、実は簡単である。まず、自分自身を三つの事業部で構成されている法人(会社)だ、と考えよう。なぜ三つなのかというと、二つでは物理的に安定しないが、四を超える事業に同等の関心を持ち続けるのは難しいからである。三脚を想起すると分かりやすいだろう。

この三つの事業部が、それぞれ別の技能で構成されていればなお良しではあるが、これはあまり本質的な話ではない(そういう器用な人はあまりいない)。スキルは一つでも、事業部ごとにお客さん(市場)が違うことが重要なのだ。例えば、レタスの栽培を生業とする人は、

1)組合を通じてB2Bで販売
2)そのレタスを使った近傍にいる人を対象にした食堂を経営
3)レタスの栽培方法についての書籍を販売

という具合に顧客が異なる別の事業部が運営できる可能性を秘めている。

「1がダメになったんで、2でもやろうか」などというのはプランBではない。個人にとってのプランBとは、一つのスキルを三つの異なるプログラムに同時に投入することで、三つの異なる市場に提供すること、それを同時並行で実施することにある。つまり、1、2、3の全てが常日頃から起動しているバックアップ・プログラムなのだ、と認識しよう。

どのプログラムの回転数を上げるか、どのプログラムが主役になるかは、市場や状況が決めることなので、全てのプログラムは、最低限、常時アイドリングさせておかねばならない、ということになる。

自営業の人であれば、この程度のことは理解しているはずだし、実践している人も多いと思うが、これはサラリーマンにもあてはまることを力説したい。良くも悪くも、テレワークの推進が、自分自身のプランBの再構築のためのきっかけになることは間違いないのである。日本(全体)のプランBとは、それら個人のプランBを積算した、他国からは「非常に説明しにくい」プランとして再構築されることになるだろう。分かりにくいものほど多様な価値が集積しているだろうし、強靭であるとも思うのである。

書名
会社をつくれば自由になれる
出版社
インプレス/ミシマ社
著者名
竹田茂
単行本
232ページ
価格
1,600円(+税)
ISBN
4295003026
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