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時間給と労働生産性について

No.99 働き方改革を実現する唯一の方法 」 に引き続いて、再度「働き方」を話題にする。今回は時間給と労働生産性について検討してみることにする。

私たちにとって「働き方」とは人生そのものに他ならない。つまり「働き方を改革せよ」は「あなたの人生、丸ごと変えた方がいいんじゃないの?」と言われていることになるわけで、これはもう間違いなく余計なお世話である。

働き方に余暇の過ごし方を加えたのがあなたの人生ですよね、というワークライフバランス的発想をベースに「今回は、余暇の過ごし方はとりあえず脇に置いて、働き方を変えることを考えましょう」ということがメッセージだとしたら、もはや前提からしてお先真っ暗だ。働くと遊ぶは本来渾然一体になっているのが生物としてのヒトにとっては自然な状態に近い。従って、労働だけ切り出した議論に集中し、それだけに最適化した施策を実行するのは極めて危険だ、ということは頭の片隅に置いておきたい。

働き方改革と言われると、例えば労働基本法や「36協定」などの各種法律・労使協定の見直しや労働政策の変更などだけが視野に入ってしまいがちだが、言うまでもなく私たちの生活は、それ以外の、例えば税制あるいは健康保険なども含めた社会保障制度などのような密接不可分な要素と合算された上で構成されている。従って、労働政策ありきで、同一労働同一賃金が実現し、長時間残業をするやつは誰一人いなくなったが、ほぼ全員が貧乏になってしまい、買い物や旅行どころか外食さえままならない、などということになってしまうとしたら本末転倒である。

働き方改革とは、国家と社会の運営ポリシーそのものの変更という覚悟が視野に入っていなければならない。例えば国家がいくらGDPを上げたいと考えても社会がそれに同意していない、ということは大いにあり得る。さらに大げさに言えば、国家と社会は根本的には対立関係にあり、お互いがそれぞれを必要悪だと認識しているということも視野に入れておく必要がある。

諸悪の根源は、前回の原稿(「No.99 働き方改革を実現する唯一の方法」)でも書いた「雇用」という制度にあることは明白なのだが、あまりに現実離れした議論になるので、もう少しリアリティのあるテーマから「働き方改革」を検討してみることにしよう。

どうやら、世間一般に言われている働き方改革の主眼は「労働生産性の向上」と「長時間残業の撲滅」、そして「同一労働・同一賃金」にあるようだ。いずれも「時間」と「労働」の因果関係をデザインし直そうということのようである。

この議論には、労働は時間の関数であるという根本的に間違った考えが横たわっていて、具体的には「時給(時間給)」という制度にそれが表出している。時給とは、一定時間を一定の場所で過ごしたことに対して一定のフィーを支払います、というなんともおおらかな考え方だ。

通常、経営者からすればこんな恐ろしい制度はとても飲めるものではないはずだが、それをごく当たり前に受け入れ、実行しているのは、その程度の時給であれば大きなコスト要因にならないと経験的にわかっている場合にのみそれを適用しているからだろう。従って、時給は低いレベルに留まることが最初から決まっている。そしてまるで被雇用者もそれと歩調を合わせるように、何のリスクも負わずに受け取れるのだから低賃金に甘んじるのは致し方ないと考えているように見える。

そもそもこの時間給という考え方が有効なのは、需要が供給を上回っている時の製造業の工場における勤務という場合のみだろう。これは“動いた分だけ”確実に売上が上がることが保証されている場合のみ合理的に機能する。つまり、高度成長期の悪しき習慣に過ぎない。そのような状況と働き方であれば、経営者は安心して比較的高めの時間給を支給することが可能になる。

しかし、現実にはこのような環境で働いている人が総労働人口に占める割合は相当低い、というか、そういう時代はとうの昔に過ぎ去っているはずだ。新興国ならともかく、良くも悪くも国として成熟し人口が減少局面に入った日本においては、動いた分(働いた分ではないことに注意)だけ売上が上がるという状態など存在するわけがないと考えるほうが自然である(余談だが、近い将来空き家だらけになることがわかっているのに高層マンションを作り続けるディペロッパーに至っては、もはや狂気の沙汰という言葉が相応しい)。

肉体を駆使した作業効率という考えや過去の経験則から離脱して、どのような産業であれ知的資本、もっと身近な言葉で言えばアイデアを労働のコアに持ってくる働き方が、本来は求められているはずである。

アイデアという言葉には少々構えてしまうかもしれない。しかし、これは誰にでも可能な、単なる考え方の変更に過ぎない。つまり「本当にこの方法でいいのだろうか」と疑ってかかるだけでいいのだ。それが稲作であれ、遠洋漁業であれ、山林からの材木の切り出しであれ、レストランのフロア担当としての接客態度であれ、ホテルのフロントであれ、商社の営業マンであれ、落語家であれ、どのような職業の人においても「本当にこれでいいのかな」と考えてみるだけで良い。

知的資本( Intellectual Capital )というと、どうしても知識の量や情報量、あるいは著作権やライセンスのような知的財産を思い浮かべてしまうが、知的資本の根っこにあるものは暗黙知や身体知、あるいは心身の健康そのものだろう。特に健康は“状態”ではなく利用可能な資本、クルマのガソリンのようなもの、と考えたほうが実感に近いはずだ。

さて、労働生産性とは従業員一人あたりの付加価値額のことを言う。付加価値額とは(多少乱暴だが)家賃と人件費を合算したものだと考えておけば良い。つまり、その語感とは異なり単なるコストであることに注意しておこう。会社によっては「共通管理費」という雑駁な言葉を使うはずである。

従って、労働生産性を上げるためには、従業員を減らすか、付加価値額を上昇させればいいことになる。後者は売上上昇の結果としてでなければ増加することはないということと、ある程度の時間を要することもあり、短期間で労働生産性を簡単に上げるには、従業員を減らすのが最も効果的で手っ取り早い。

しかし、現在の「働き方改革」ではこの文脈(=従業員を減らす)で労働生産性という言葉が利用されているわけではなかろう。雇用を維持したまま付加価値額を上げるにはどうしたらいいのかという議論になっているはずだ。それが従業員一人あたりの単位時間(期間)あたりの売上を増やせ、という議論につながっている。

残念ながら労働生産性については、労使の利害が一致することはない。一人あたりの売上高が突出している社員は組織を飛び出した方がより(本人の)労働生産性を上げることができる可能性が高く、その組織に残ろうとはしない。労働生産性の低い社員だけで労働生産性を上げなければならない、というジレンマの中にこそ会社というものの本質がある。労働生産性の低い社員だけでその人員を構成するからこそ会社なのだ、とさえ言えるだろう。

従業員から見た時に会社が丸ごと福利厚生施設に見えやすいのはこれが理由だ。従って、労働生産性の向上は社員の頑張りやモチベーションに依存して実現するわけではなく、もっぱら経営者に課せられた課題だということがわかる。社長から「労働生産性を上げろ」と言われた従業員は「それはお前の仕事だろ」と切り返すのが正しい(そのように正しく切り返してくれる社員の雇用こそ死守すべきかもしれない)ということだ。

「働き方改革」とは従業員ではなく経営者に突きつけられた課題なのだ。労働生産性とは「労働者自身の生産性」ではなく「労働者としての経営者自身の生産性」なのである。つまり本丸は「経団連」になる。

さて、粗悪品だろうが何だろうが作ったそばからどんどん売れていく経験だけを数十年重ねてきた無能な連中に「働き方改革」は可能だろうか? それにふさわしいアイデアが彼らから出てくることに期待できるだろうか? これは、どう考えても悲観的にならざるを得ない。何しろ「この年になるまでやったことがない」からだ。

むしろ、過去に妙な成功体験がない経営者としての若者に期待するほうが、ゲームとしては高い確率で成功するだろう。どうせ一蓮托生になるのなら、自分で起業するのでない限りは、信頼できる社長がやっているベンチャーあるいは中小企業に拾ってもらう方が、働き方改革に関する展望が開ける可能性は高い。

なお、「長時間残業の撲滅」そして「同一労働・同一賃金」についてはあまりに馬鹿馬鹿しい課題設定なのでここではこれ以上議論しないことにする。