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創生されるべき未来(無形資産)の作り方

これから私たちが作るであろう未来は「無形資産」が中心となるだろう。しかし、無形資産の最大の弱点は、見た目があまりパッとしない、高度成長期のような視覚的価値に欠けるものにならざるを得ないことだ。とはいえ視覚以外の聴覚、嗅覚、触覚、味覚、あるいは時空間の流れ方に、より一層の豊かさを感じることができるのであれば、それこそが大正解であり、そのとき初めて私たちに持続可能性を議論する資格が発生するような気がする。

無形資産(Intangible asset)とは、可視化や数値化が難しい資産のことを指す。前回の原稿「無形資産の耐久性」でも記したように、関係資本、経験、そして健康がその三本柱だ。零細事業者の原資の大半はこれが占めるのだが、今回はこれをもう少し細かく観察してみよう。

特許などの知的財産や社員の営業力(=単位期間あたりに作成した見積書の枚数などで可視化可能)あたりであればまだ見える化しやすいので対処は比較的容易だが、今回考えてみたいのはもっと具体的に無形資産を表すと思われる“言葉”についてだ。

無形資産を表す言葉は、ある種の精神性や情緒、(物事の)関係性、そして人生における価値などを指し示していることが多く、また(“営業”がまさにそうであるように)その言葉の末尾に「力(りょく)」を付け加えた時に、可視化に一歩近づいたような気がする言葉であることも多い。

一時期、様々な言葉の末尾に「力」を付け加えたタイトルの書籍(e.g. 「老人力」など)が流行した時期があるが、これはまさに無形資産を可視化しようとする試みと言えないこともない(実際は単なる販売促進上の姑息な戦術に過ぎないのだが)。

ある社会の持続可能性を検討する時に、(天然資源などの)有形資産の持続可能性を単独で議論することに意味はない。私たちが本当に欲しいものは無形資産であって、有形資産はそれを実現するための便宜的な道具に過ぎないからだ。無形資産の価値をより高める時に有形資産を必要としないケースはほとんど存在しないという言い方もできる。

無形資産は、有形資産を座布団にして可視化されている。座布団の上に座っている状態が無形資産である。問題なのはその座布団の仕入コストであり、かつなんらかのエレガントなアイデア(これも無形資産だが)がインストールされているか、という点にある。

具体的な例を挙げる。

筆者が起業した時に、何人かの友人からお祝いを頂いた。堅苦しい言い方をすると、これは「激励(応援)」という無形資産を何らかのギフトというハードウエア(有形資産)を利用して表現したギフト・コミュニケーションだ。(失礼な行為ではあるが)印象的だった二つの例を比較させていただく。

小さな会社を経営している友人(男性)からはモンブラン(montblanc)の万年筆を頂いた。高額であることが誰にでもわかる、頂いただけで恐悦至極とも言えるような代物だ。これはこれで大変有難いのだが、もう一人の友人(大手広告会社に勤務する女性)からはスターバックス(starbucks)のプリペイドカード(3000円相当)を、失礼ながらさほどの金額ではないものに対して少々過剰とも思えるパッケージングが施されたものとして贈っていただいた(おそらく彼女自身がラッピングしたと思われる)。

どちらも今でも愛用しているが、やはり印象的なのはプリペイドカードである(小さなメッセージカードも添えられていた)。仕入原価(?)は数十倍の違いがあるにもかかわらず、ちょっとした個性とアイデアを追加するだけで、激励という無形資産の価値をモンブラン並みに、あるいはそれを凌駕するようなものにできるのだ、ということを彼女は証明したような気がする(少々大げさか)。

気持ちの強さは、ハードウエアそのものの品質に対してではなく、そのハードウエアの使い方、行為、そしてそのプロセス(ストーリーといっても良い)によって表現される(手紙を書いた、自分でラッピングした、など)。個性のインストールは人工知能には最もハードルが高い作業であろう。

その他、「愛情、友情、仲間、家族、団体、情緒、笑顔、感動、情熱、希望、習慣(習俗)、物語、文化、伝統、儀式、祭(祭典)、郷愁、礼儀、心、感謝、贅沢、学習、思考、倫理、論理、記号、数字(自然界に潜む法則)、経験、流行、継承、持続、伝達、移動、保存(保管)、記憶(身体知も含む)、安心、安全、信仰、道徳、公徳、健康、時間(時空間と時間差)、居場所、文脈(タイミング)、(将来に対する)信頼、(過去の)信用、尊敬、知恵、知性、教養、刺激(五感を刺激するもの全て)、努力、協力、編集、軸、遊び(娯楽)」などが無形資産だ、と言い張ってもさほど間違いではなかろう。これらをとりあえず無形資産用語集、ということにしておく。

個人レベルで、これらの無形資産が少しずつでも蓄積されているのであれば、その総和としての社会は極めて豊かなものになる。しかし、これから私たちが作るであろう無形資産の最大の弱点は、見た目があまりパッとしない、高度成長期のような視覚的価値に欠けるものにならざるを得ないことだろう(「エリアリノベーション」はその典型ではないかと思う)。

とはいえ視覚以外の聴覚、嗅覚、触覚、味覚、あるいは時空間の流れ方に、より一層の豊かさを感じることができるものであれば、それこそが大正解であり、そのとき初めて私たちには持続可能性を議論する資格が発生するような気がする。これら無形資産の価値を最大化するために、どのような有形資産をどのように低価格で仕入れ、どのような企画(アイデア)をインストールしてなるべく高価格で販売可能にするかが、実は、地方創生、地域の活性化に他ならない。

視覚的価値は既に自然資本として存在しているものだけで十分で、人工物でそれを凌駕するようなものを作ろうとするのはコストが合うわけがないのだ。地域として自主財源をどのように成長させるか、というのもまた一方の重要な議論ではあるが、これらは並行して考えていくべき課題である。

人生の醍醐味(目的)は「友と語らい(笑い)、それなりに美味いものを食い、たまには旅行に出かけ、たくさん眠ること」にあると筆者は考えている。この4項目のどれか一つが欠けただけで、私たちの生活は途端に息苦しく、豊かさからは距離を置いたものになる。そしてこの4項目を実現するために、もう少し具体的で粒度の小さな目標が必要になり、そこに前述の無形資産用語集にある言葉を適当に当てはめていけば良さそうだ、という仮説が思い浮かぶ。

様々な国から色々な幸福度指数なるものも提案されている。これには、ご承知のようにいろんな議論がある。ブータンのGNH(Gross National Happiness:国民総幸福量)も参考にはなるが、GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)も全面的に否定されるべきものではなかろう。結局はバランスである。

最終的には私たち一人ひとりが「いやー、結構面白くて楽しい人生でした。ありがとう」と言い残して死ねるかどうか、というだけの話だ。功成り名遂げた人が第一線を退いた後に教育事業に遁走するのはある種の懺悔(ざんげ)、償いであろう。どこかで辻褄を合わせる、あるいはバランスを取らないと死んでも死ねないと考える良心的な老人なのである。

また、「地方創生」が個人による特定地域への滅私奉公みたいな話になるのだけは避けたい。それが世界なのか日本なのか、特定の市区町村なのかは個人にとってはどうでもいい話だ。個人にとっては「家族」以上に強い意味を持つ集団は存在しない(ただし、家族はストックとフローの二面性を常に併せ持つことには注意して欲しい)し、結局最後は一人になることを避けられないのが私たちの人生である。

「美味いものと眠ること」は健康という言葉にまとめることができるので、無形資産としての「関係資本」、無形資産としての「移動の自由」、そして無形資産としての「健康」という3本柱を設定し(経済問題とは詰まるところ移動の自由のことを言っているのだ、と言い換えることもできる)、そこに前述の無形資産用語集をうまく当てはめていけば良いことがわかる。ベンサムの功利主義を下敷きにしたような議論になってしまうのだが、当然この主義に全面的に共感しているわけではなく、また主義というものを信用しない主義であることも併せてご理解いただきたい。

さて、そのような前提でどのような未来を創生していけばいいのかについて、以下の項目を提案しつつこの項を終えることにする。

1)関係資本系の充実
・一人の人間から見たときの家族の概念と、それを構成する人数の多さと感覚的な交流の深さ
・政府と行政、あるいは公務員全般(公務員は地位とは無関係に全員が国家である)に対する信頼、および関係の安全性
・曖昧さの担保、ジレンマに対する許容度

2)経済系の充実
・個々にそれを快適と感じられる衣食住の自由と保証
・移動の自由と安全性および時間的余裕
・人生のどの時点の失敗からでも立ち直ることを許容・支援する社会
・制度資本と社会資本の公益性
・共有地の面積(互助会的組織の発達度)

3)健康系の充実
・自己肯定感をバックアップしようとする風土
・個性を尊重する社会(個人的な希望的観測を堅持できる社会)
・環境に存在する人工物が必要最低限であること
・健康寿命の長さ
・関係資本(1)の時間的な持続可能性
・健康であるために必要な最低限のストレス以上のストレスが発生しにくい社会
・幼少期における心身的な堅牢性の獲得

参考文献:
『「ひとり」の哲学』 山折哲雄(2016)新潮選書